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いまこそ責任政党に恥じない政策選択を!
わが国をとりまく環境は厳しいものがあるが、今後、数年間が勝負になる。「縮み思考」では何も解決しない。立ち上がって前向きに課題に取り組んでこそ活路は開けるのであり、日本にはまだ、その強さが残っている。


与謝野鉄幹・晶子は教科書に出てくる人

 私はよく、祖父母である歌人、与謝野鉄幹・晶子のことを聞かれることがある。しかし、鉄幹は私が生まれる前に亡くなっている。晶子もずっと病床に伏しており、私が四歳のときにこの世を去った。だから、幼いころの私には、世間で言うような「おじいちゃん」、「おばあちゃん」というような感覚はまったくなかった。むしろ二人は、教科書に出てくる人であった。

 ところが一昨年の暮れ、誰が言い出したか、いとこ同士、つまり鉄幹・晶子の孫たちが集まって、祖父母のお墓参りをしようという話が持ち上がり、総勢二十数名で東京の多磨霊園に行った。その中の一人が持ってきた映画フィルムに、皆は目を奪われた。そこには、なんと私の姉を抱く祖母・晶子の嬉しそうな姿が映っていたのである。初めて見るそんな祖母の映像に、私は「与謝野晶子」との距離がぐっと縮まったような気持ちになった。


反骨精神旺盛な外交官の父

 私は国政を志して今年で早くも三十年以上になるが、少なからず自分に影響を与えている身内といえば、鉄幹・晶子夫妻の期待を一身に浴びて外交官となった父の秀であろう。本誌のこのシリーズに登場された国会議員の多くの方が、自分の父親について書いているので、私も紙面をお借りして父のことに触れてみたいと思う。

 昭和二年、十一人兄弟の次男の与謝野秀は、両親の勧めに従い外交官試験に合格、外務省に入省した。後年、父に「なぜ外交官になったのか」と聞いたことがある。父は、与謝野鉄幹がどうしても、息子の一人を外交官にしたいという希望をもっており、自分がその期待に応えたのだといっていた。

 昭和二年といえば、金融恐慌が勃発した年である。学生さんたちの就職状況には厳しいものがあったはず。父が役人の道を選んだのも、当然の成り行きだったのかもしれない。

 昭和十年代、政・官界は、日独伊の枢軸派が圧倒的多数の勢力を形成していた。そんな時代に、父は外務省の中で孤立しながらも、日独伊枢軸派外交に反対をしていた。外見は大変美男子で優男であったが、反骨精神は旺盛だった。私も多少、その血を引いているようだが、父は皮肉にも昭和十八年、最も嫌っていたドイツの日本大使館勤務を命ぜられた。当時、五歳の私は、母と東京駅まで見送りに行き、父が「つばめ」の展望車に乗り込み、出かけて行った姿をいつまでもはっきりと覚えている。

 まだ、飛行機を簡単に使えるような時代ではなかった。たぶん汽車を乗り継ぎ、敦賀から日本海を船で渡り、シベリア鉄道でモスクワを経由して大使館のあるドイツの首都ベルリンに入ったのであろう。

 父の反骨精神は、ドイツの地を踏んでからも変わることなく、ナチスのヒットラー総統を痛烈に批判する内容の電報を日本に打っている。それは、終戦を迎えても終始一貫していた。

 周知のようにGHQ(連合国軍総司令部)のマッカーサーの基本的ねらいは、日本の軍国主義体質を改め、平和的な民主国家につくり変えることにあった。

 そういえば聞こえは良いが、当時の占領国アメリカは、日本の伝統、文化、政体、制度など、あらゆるものを破壊することにより、日本を二度と再び立ち上がらせぬようにしようという意図があったのは明白である。

 その改革は官僚にも及んだ。マッカーサーは、日本の全官僚に再試験を課したが、父は答案用紙を白紙のまま提出した。日本やヨーロッパのような歴史と伝統を持たぬ、新興国のアメリカから来たマッカーサーに強いられる試験などに、まともに答える必要はあるものか。そんな気持ちであったのだろう。

 話を戻すが、昭和二十年初め、連合軍のベルリン空爆は日増しに激しさを加え、ついに同地の日本大使館も撤去を余儀なくされた。やむなく大使館員は、中立国のスイスに逃れることになった。

 晩年、私は「大使館から逃げるときに親父の役割は何だったのか」と聞いたことがある。父は、「大使館の地下室の金庫に保管していたお金をリュックサックに詰め込み、スイスのベルンまで運ぶのが自分の役目だった」と話してくれた。その頃、父は、四十歳くらい。まだ若かったので、重い札束の運搬を任されたのだろう。私は重ねて、「どんなお金を持って逃げたのか」と聞いてみた。恐らくスイスフランだろうと想像していたのだが、さも当然というように「ドルだよ」の一言が返ってきた。

 当時、ベルリンの日本大使館が保管していたのはマルクでもなく、円でもなく戦争をしている相手国のドルであったのだ。私は戦火を交えている敵国のお金が、ドイツで通用していたこと自体に驚いた。日本政府は、ドルでないと国際的に通用しないということをよく知っていたのだろう。

 円の国際化ということがよくいわれるが、今の日本の円は世界の通過としての評価はまだそう高くはない。日本経済を早く回復させて、ドルやユーロ並とはいかないまでも、せめてアジア諸国の間での決済に、しばしば使われる通貨になるのが待ち遠しいものである。

 外務省の役人だった父は、各国大使、外務研究所所長などを歴任し、昭和三十七年、請われて東京オリンピック組織委員会事務総長に就任、晩年は科学技術庁原子力委員会の委員を引き受けた。経歴が示すように、父は生涯、公的な仕事に携わっていたが、世間が思うようなお堅い役人のイメージとはおよそかけ離れた人だった。

 若い頃の父は、当時、美男子の代表といわれたテノール歌手の藤原義江と並び称されるほどの男前であったが、競馬に入れ込み、海外ではカジノにしょっちゅう顔を出すギャンブル好きで、何よりも無類の酒好きであった。「ビールは酒のうちに入らない」といって、強い酒を飲み続け、ついにはベルギー公使時代にアルコール性の肝炎にかかってしまった。「このまま飲み続けなければ長生きはできない」と医者にいわれても、好きな酒をやめることはなく、二十年間余り飲み続け、結局、肝硬変で命を落とした。六十六歳であった。

 もう、三十三年も前のことになるが、死ぬ一週間前、私は父の入院先の虎ノ門病院に見舞いに行った。自分でも、長くは持たないと悟っていたのだろう。すでに黄疸がはじまり、黄色くなった顔で、ぽつりともらした。「馨、偉くなれよ。でも、偉くならなくてもいいんだぞ」

 父が教訓めいたことを口にしたのは、後にも先にもそれがはじめてであった。私は少年時代、イングリッシュ・スクールで寮生活をしていた。そのときに規則を破り、舎監の先生に樫の木の鞭で尻を叩かれたことはあるが、父に殴られたり、教訓じみたことをいわれた記憶はない。
父が、病院のベッドの中で最後につぶやいた言葉の真意は定かではないが、私は自分なりに、こう解釈している。

 「偉くなれよ」というのは、自分の進んだ道は、ちゃんと全うし、いい仕事をやれよ、という意味であり、「偉くなくてもいいんだぞ」というのは、世の中は地位や名誉じゃない、という意味だろうと。以来、私は父が残してくれた唯一のこの”教訓”を胸に、生きてきたつもりである。

 私も今年でちょうど父が死んだ年と同い年を迎えるが、父よりは、もう少し長生きしたいと思ったので、ここ十年ほどアルコールを控えてきた。そのせいか、体調の方はすこぶるよいので、これからも仕事師に徹して、国民の負託にこたえる”いい仕事”をしていきたいと思っている。


党基本理念委員会委員長に就任

 自由民主党は来年、立党五十年を迎えるにあたり、「立党五十年プロジェクト」として、わが党の道筋を示す「基本理念委員会」が設置された。「わが党が、さらなる五十年に向けてどのような国家像を確立していくかという基本的な論議を大いに行う場を作りたい」という安倍晋三幹事長のリーダーシップのもとに設けられた機関である。私は、その委員長という重責を仰せつかった。そこで、この夏の前くらいを目処に幹事長の諮門に応じて、教育、経済、外交・安全保障などの各分野について、自民党らしく幅広い意見を集約し、新しいわが党の理念を打ち出していきたいと思っている。

 今の自由民主党の網領は、ベルリンの壁に象徴された自由主義陣営と社会主義陣営が対立していた時代の産物である。さらに、国内も大変貧しい状況の中でできたものである。

 しかし、いまやベルリンの壁は崩壊し、旧ソ連は解体し、自由主義を選ぶか、非民主的な社会主義を選ぶかという、明瞭で簡潔な対立軸はなくなった。そして、日本も経済的に大きく発展した。このように、冷戦下の五十年とは格段に変わってきている内外の情勢の中で、わが党はこれから先、どうあるべきか、何を目指せばよいのかを真剣に考えなくてはいけない。

 そもそも政治は憲法に従って国を運営するのが、基本である。しかし、言うは易く行うは難しで、実は「国が治まっている」という状況をつくり出すのは大変難しい仕事である。世界に目を向けると、残念ながら「治まっていない」国がたくさんある。やはり、政治の第一の仕事は、「国を治まった状態にする」ということだと、私は思っている。

 一方、わが国の国民生活をある一定水準のレベルで維持することも大切だ。先人たちの汗と努力で、せっかく到達したいまの豊かな日本の社会を維持していくことも、また政治の大きな責任ではないのか。


持続可能な社会をつくる

 まず、そのためには、あらゆる視点から、この日本の社会は持続していくことができるかどうかを検証していく必要がある。

 日本の外交、安全保障政策、治安対策は持続可能なのか。少子高齢化が急速に進み、労働人口が急速に減っていくなかで、いまの経済、社会福祉政策はこのままで持続していけるのか。エネルギーの安定確保はどうなのか。

 わが国は世界に誇る教育制度を有していたが、最近は教育に対する不安はかつてないほど高まっている。まずは、政権政党、自由民主党がすべてのジャンルで持続可能かどうかを点検し、わが党の進むべき道筋、国家像を求めていかなければならないと思っている。
「空白の十年」をいわれるが、十年に及ぶ経済停滞、治安の乱れ、教育の劣化などのさまざまな課題に、これまでの政治が十分に対処できていないのは、われわれ政治家に責任がある。とくに政権政党・自民党の責任は大きい。

 かつての自由民主党に誇るべき大きな二つの特質があった。ひとつは国民政党として、常に幅広い国民を対象にして政治を行ってきたことだ。当時の最大野党だった日本社会党は、全面的に労働組合に依存していた。そのため、あらゆるレベルでの政治行動に自ら枠がはめられ、それが万年野党に甘んじる最大の要因となったと、私は考える。わが党には、そんな枠はなく、国民全体を視野に入れた政治を志向できたことが、長期政権の維持へと繋がった。

 もう一つは、責任政党であることを、わが党は十分自覚していた点である。常に理想を悟りながらも、現実的にかつプラグマティックに物事を処理してきた。もちろん幅広い国民を対象にしており、時には人気取りが先行する政策を打ち出したこともないとはいえない。しかし、大筋では日本の将来に責任を持つという新年を堅持し、柔軟に政策選択を行ってきた。


「きちんとしている」と見られる政党に

 その典型は、古くは岸信介政権下の日米安保条約の改定であり、最近では竹下政権での消費税の導入であろう。自由民主党には、将来に備え、当面の痛みや辛さに耐えるよう国民に訴える正直さがあった。また、多少世論の逆襲があっても、党の新年としてこれをやらなくてはならないということについては懸命に国民に説明をした。そして、国会では、各党の理解を得るための努力を重ね、最後はわが党の自らの責任で法律や条約を通してきた。だからこそ、一時は不評であっても時間が経つと、「やはし責任政党自民党は国民のことを考え、日本の将来を考える政党だ」という評価が定着していったのだと思う。これがわが党の底力でもあった。

 ところが近年は、わが党を含めて既存政党に対する国民の不満が高まっている。その不満の根源は、政治における「きちんとしている」という感覚の欠如だと思う。私は、自民党の行ってきた政治は大筋では間違っていないと確信している。後世からもそれなりの評価を得られる政策を実現してきているが、「自民党はきちんとしている」という評価は次第に低下してきている。また、「謙虚に丁寧に政策を説明する努力を怠っている」という不満が、わが党の支持者のなかからも起きている。われわれは、こうした声にもっと深刻な危機感をもって対処すべきである。

 政治には、本来強い使命感と決断力と、そして何事も「きちんとしている」ことが求められている。そして、国の基本方向については、真面目な論議をオープンに戦わせ、出来上がった政策を懇切丁寧に有権者に説明する。そういう政策集団として、わが党は蘇らなくてはならない。それが責任政党というものである。


現在の小選挙区制度に問題がある

 この責任政党という立場に致命的な打撃を与えているのが、現在の小選挙区制である。有権者の過半数に近い票を獲らなければならない現在の選挙システムでは、どの党もポピュリュズム(大衆迎合主義)、すなわち有権者の目先の関心を勝ち取ろうという政策をとらざるを得なくなってくる。こうした傾向は、ますます強くなっている。

 自由民主党もその例外ではない。長期的には、この方向が正しいと思いながらも、やはり受けの良い政策に流されてしまう傾向が見られる。いわゆる「バラマキ」政策が目立ってきたが、日本国民は実に懸命で、政策判断のレベルも極めて高い。冷戦後、イデオロギーでは区別のつかなくなった政党間で、わが党が再び評価されるとしたら、国民政党、責任政党としての原点に立ち返るしかない。自由民主党は、非現実的な理想論のみを振り回してきた無責任な政党とは違い、決して空理空論は唱えず、国民の生活に責任を持ってきた。私は、国民政党、責任政党という言葉は今も生きていると思う。この言葉に恥じない政策を選択していかなくはならないと考える。


豊かなこの国を次代に引き継ぐ

 さて、基本理念委員会が手をつける大きなテーマの一つは、やはり憲法改正であろう。日本人が自らの手で憲法をつくる作業をすることによって、国民と憲法が一体化することは大切である。われわれが六十年近く使っている憲法は優れた部分もたくさんあるが、いまの九条の解釈は実に分かりにくい。自衛隊の存在と役割を憲法の条文できちんと位置づける必要がある。国際社会の中で、わが国がどのような役割を果たすのか、その原則もきちんと明記しなければいけないと思う。

 二十世紀に生まれた思想は、法の支配によって世界平和が維持されるものである。法の支配によって平和を守ろうという部分には誰もが賛成しているが、法の支配が破られたらどうすればいいのか。そのことを日本人はあまり考えてこなかった。そういう意味では、国際社会における法の支配によって、平和や秩序を守るためには、やはり国際貢献は欠かせなくなくなる。法の支配のお手伝いをすることを、日本の憲法に明記しておく必要がある。さらに、国家が存続していくためには、教育問題にも真剣に取り組まなければならない。日本人が持っている粘り強さや、勤勉で意思疎通の早い同質な文化などの持ち味を失ってはならない。基本理念委員会では、やはり教育基本法の改正、現場の教育問題が重要な論点になってくるのではないか。教育基本法では、公私の区別とか、他人と自分のかかわり合いの大切さなどを教えることが、教育の基本であるということをきちんと書く必要がある。

 私は、教育問題を論じるには、制度の問題とともに、社会の規範、生きる知恵、仲間とより快適につきあうための礼儀作法などの社会教育に、もっと目を向けなければいけないと思っている。われわれ国民一人ひとりは、日本という運命共同体の一員である。自分のことを考えるとともに、自分の属している運命共同体の将来のことにも考えが及ぶ人間を作ることが大切である。権利を主張するだけでなく、国民としての義務と責任がしおっかりと身につく社会教育を真剣に考えていかないと、それこそ取り返しのつかぬことになる。

 政治とは国家の基本、土台となるべき事柄に取り組むことだと思う。民主党のマニフェストの一番目が「高速道路の無料化」というのは異常なことである。

 国政における政策マニフェストとは、国民の努力が結集できるような国家の大きな目標を提示し、単なる政策羅列ではなく、優先すべき政策と価値観を明確に示し、それを実現するための具体的な仕組みを明らかにすることに重点が置かれるべきである。

 私の政治に対する情熱と志は、初めて立候補したときからまったく変わらない。現在の日本は嵐の中を漂う船に似ている。海図さえ描くことができない極めて危ない状況にある。この国を将来においても不安のない、しっかりした豊かな国として立て直し、次の世代に引き継ぐことが私の使命であり、責任であると考えている。

自由民主 平成16年4月号

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