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> 日本の国力の劣化を恐れる−私の政治の原点
鉄幹・晶子は教科書に出てくる人
──外交官だったお父上の仕事の関係で、生まれてすぐ北京に行かれたそうですね。中国でのご記憶は……。
与謝野 全くないんです。中国にいたのは〇歳から二歳くらいまでだろうと思うんですよね。もの心ついて、記憶がある程度正確に残っているのは、四歳の後半からです。
──帰国後、おばあさんである与謝野晶子さんと一緒に暮らしたそうですが、覚えていることはありますか。
与謝野 病床に伏しているのを覚えている程度ですが、お葬式の情景はよく覚えています。与謝野晶子が晩年住んでいた荻窪の家は、いま杉並区の公園になっていて、一度行ってみたいと思っているんですけどね。
──高名な祖父母を持つというのは、どんなことなんでしょう。
与謝野 与謝野鉄幹は私が生まれる前に亡くなっていたし、与謝野晶子は私が四歳のときに亡くなっていますから、おじいちゃん、おばあちゃんという感じは全然ないんです。肉親というより、むしろ教科書に出てくる人という感じでしたね。いまも自分のおじいさん、おばあさんだという感じは、実感としてはないです。そういう意味で、歴史に残る文学者の孫だという意識は、ちっちゃい頃から現在に至るまで、一度も持ったことがないですね。
親父にとってビールは清涼飲料水
──父上(与謝野秀)は各国大使を勤め、東京オリンピック組織委員会の事務総長もされました。ご自身、スポーツマンだったようですが、どんな方でしたか。
与謝野 父は与謝野鉄幹の次男で、暁星中学を出て一高に行って、一高ではハイジャンプの選手でした。インターハイの記録を持っていて、相当なスポーツマンだったと思うんですね。東大では冬はラグビー、暖かくなってからは野球という、スポーツ三昧だったようです。まれにみる美男子で、頭はよかったんだろうと思うけど、ガリ勉だったという感じはあまりなかった。大変、才能豊かな人だったんじゃないでしょうか。
──酒とギャンブルがお好きだったと……。
与謝野 いや、お酒は非常に強い人で、ビールは清涼飲料水という感じでしたね。ウイスキーを一本空ける、日本酒を一本空けるというのが酒を飲むという単位で、われわれと違うんですよ(笑)。ギャンブルは外交官になってから、最初の任地が「花の都パリ」だったもんだから、若き青年としてカジノなどに出入りしていたんじゃないですかね。
結局、肝硬変で死んだんですけど、死ぬ一週間前に病院に見舞いに行ったら、「馨、偉くなれよ。でも、偉くならなくてもいいんだぞ」と。矛盾したことを言ってるんだけど、「偉くなれよ」というのは、頑張っていい仕事をしろよという意味だと思います。「偉くならなくてもいい」というのは、世の中は地位じゃない、ヘンに無理する必要はないぞということだろうと思うんですね。
外交官として日独伊枢軸外交に反対
──戦前はベルリンの日本大使館におられたんですよね。
与謝野 昭和十年代の外務省は揺れていて、ドイツ、イタリアと組んでどんどんやれという日独伊枢軸派と、アメリカやヨーロッパの国々とは良い関係を持たなきゃいかんという欧米派に分かれていたんです。当時の流行りは枢軸派で、軍部も議会もマスコミもみんなそうだった。ドイツが大陸で勢いよく席巻していましたから、ドイツと組めという人が外務省の主流を占めていたんですね。
私の父は枢軸派外交に反対していたけれども、外務省では時流に乗る人たちが増えて、父たちは少数派になっていった。それでも父は頑張っていたと思うんです。外務省の父の先輩が、「君のおやじがベルリンから打ってきた電報は、ヒットラー批判を平気で書いていたよ」と言っていました。当時、枢軸派でえらく勢いがよくて、戦後になってコロッと転向したのは、牛場信彦(元駐米大使)さんですよ。
──親米派と言われた牛場さんが……。
与謝野 時流に乗ってね。みんなそれで失敗したんだ、日本の社会は。
──父上は戦後、マッカーサー司令部がやった官僚の再試験で、白紙の答案を出したとか。
与謝野 そう。結構、反骨精神はあったんだと思いますよ。
いまの子どもたちは知りませんけど、われわれの世代の男の子というのは、父親とそんなにベタベタ話すということはあまりないんです。だけども、ある年齢に達すると、父親の生き方というのは、たぶんこうだったんじゃないだろうかということが、少しずつわかってくるんですね。私も父親といろんなことを話した覚えはあまりない。晩年になってから少し話はしましたけど、会話らしい会話というのはほとんど覚えてないですね。
──父子で酒を飲むようなことは……。
与謝野 なかったですね。
一人で遊ぶのが好きな子供だった
──お母さま(与謝野道子)は、どんな方だったのでしょうか。評論家として著書もありますね。
与謝野 私の母は坂内虎次という電気技師の娘です。八人きょうだいの末っ子で、六歳のときに母親を亡くして継母に育てられたんです。坂内というのは謹厳実直な人で、奥さんを亡くして再婚したものの、気に入らなくてすぐ別れて、また再婚したけど気に入らなくて別れて、結局三人、継母が代わったというんですね。
菅原通済(実業家)という方、ご存じでしょう。私の母の継母のひとりが、別れたあと菅原通済のお父さんの後妻になるんです。だから、母は「菅原通済さんと私は継母兄妹だ」と言って笑ってましたよ。
母はあまり口やかましい人じゃなくて、わりに自由に育てられました。最近の母親を見ていると、朝から晩まで子どもを叱っているでしょう。われわれの時代とはちょっと違うなと思いますね。
──与謝野さんは、お小さい頃はどんな子供だったのですか。
与謝野 荻窪の家にいるときに幼稚園に入れられて通っていたのですが、幼稚園にいるのが嫌でね。幼稚園に行くと、自分ひとりで家に帰ってしまうんですよ。「登校拒否」じゃなくて、登校はするんだけど、すぐ下校しちゃう(笑)。たぶん、みんなと一緒に遊んでいるより、ひとりで遊んでいるほうが好きな子供だったんでしょうね、幼稚園の時代は。小学校に入ったら、そんなことはなくなったけどね。
政治の世界に入ってから、母が笑ってましたよ。「おまえは小さい頃、お使いに行ってこいと言うと、店の扉を開けるときが恥ずかしいと言っていたのに、なぜ選挙運動なんかやって、知らない人に声を掛けたり、握手したりできるんだ」って(笑)。
六本木が米軍基地の町になった
──戦争中のご記憶はありますか。
与謝野 ありますよ。昭和十八年から長野県の沓掛に疎開しましてね。昭和二十年の三月に、母と一緒に何日間か東京に帰ったんです。そのとき東京に大空襲があった。
──三月十日の……。
与謝野 ええ。空襲というのは、真っ暗闇の中をサーチライトが照らされ、高射砲の曳光弾が撃たれたりして、子供にとってはすごいショーなんですよ。命の危険というのは全然感じていないんです。
それから、昭和二十年代の前半というのは日本中が食い物がなかった。おなかいっぱい食べるのは非常にぜいたくなことだと思っていました。そういう意味では、いまの豊かさというのは信じられないくらいです。
もう一つ、私たちは六本木に住んでいたのですが、わが家の隣は二・二六事件を起こした麻布三連隊、いまの旧防衛庁跡には麻布七連隊があったんです。昭和二十一年に疎開先から戻ってきたら、そこはアメリカ軍に占領されていて、あの辺は基地の町になっていたわけですよ。朝は星条旗が掲げられ、夜は星条旗が降ろされて、六本木の交差点はアメリカ軍のMPが交通整理をしていました。もちろん、いまみたいな六本木ではなくて、ネオンサインなんか一個もないようなところでしたけど。
私の戦争体験というのは、空襲に遇ったこと、ひもじかったこと、そして、六本木が米軍基地の町になったという三つですね。
──小学生にとって、米兵は怖くなかったのですか。
与謝野 何も感じないわけですよ。当時の日本と、いまのイラクを比べると雲泥の差があって、日本人はアメリカに占領されて、みんな「マッカーサーは偉い人だ」というふうに思っていたんです。だから日本の占領統治というのは、武装解除もあっと言う間にできたし、アメリカ軍に立ち向かってくる者もいないし、向こうにしたら信じられないぐらいうまくいったんだろうと思いますね。それを頭においてイラクの占領統治を考えていたとしたら大間違いですよ。
──イラク人は日本人のようにもの忘れの激しい人たちではありませんね。日本ではなぜレジスタンス運動が起きなかったんでしょう。長い戦争に疲れていたとは思いますが。
与謝野 天皇の存在が大きかったんだと思います。天皇陛下が、忍び難きを忍んで頑張ろうと言ったので、すべて治まった。もともと心ある軍部の人たち、心ある政府の人たちは、「こんなばかな戦争は続けられない」と知っていたはずなんですよ。それで最後に天皇陛下が聖断を下した。これは戦争にピリオドを打つには非常に有効だったんじゃないでしょうか。
映画に出てくるわが小学校
──小学校に入られた年に終戦ですね。
与謝野 昭和二十年の四月に沓掛の小学校に入りました。疎開していた子供たちがいっぱいいたものですから、軽井沢小学校千ガ滝分教場という急ごしらえの学校ができたんですね。いまの中軽井沢駅からスケートセンターのほうに上がって行くと、左側にテニスコートがありますが、そこがわれわれの小学校の校庭跡です。当時の映像がいまも残っているんですよ。日本で初めての総天然色映画で『カルメン故郷に帰る』というのがありまして、そのロケ地が、われわれの小学校なんです。
──木下恵介監督、高峰秀子主演の映画(昭和二十六年)ですね。
与謝野 そうそう。ビデオを買って見たら、われわれの小学校が出てくるんですよ。
──入学したときは国民学校で、戦後、小学校に名称が戻った……。
与謝野 いまでも覚えていますが、あるとき教科書を取り上げられて、代わりに新聞紙みたいな大きな紙を渡され、「家に持って帰って、お母さんに綴じてもらいなさい」と。印刷だけはできたんだけど、製本できなかった教科書なんですよ。
──終戦の翌年、東京に戻る。よく小学校の先生にビンタを食ったそうですが、いたずらっ子だったのですか。
与謝野 まあそこそこ、みんなでいたずらしてたんでしょうね。大きくなってから、私に往復ビンタをくれた先生に会ったら、自分よりとても背の小さな人なんで、「あのときは大きく感じたけどな」と思って(笑)。
いま体罰といったらPTAや親が大騒ぎするけれども、当時は悪いことをすりゃあ立たされたし、箒でぶん殴られたり、往復ビンタ食らったりした。昭和二十年代は、そんなことは特段問題にはなりませんでしたよね。
あの頃、戦争は終わったけども、六本木あたりはまだ焼け跡だらけで、遊ぶ場所がいっぱいありました。
カイロで寄宿舎生活
──それから麻布中学に進まれた。
与謝野 そうです。いま麻布中学というとえらく難しい学校になっているんだけど、私たちは港区立麻布小学校で、近くの私立中学校というと麻布中学だった。当時、クラスで四人ぐらい、学年で十人ぐらい麻布に入っていましたからね、そんなに難しい学校だったわけじゃないんですよ。
──中学二年の終わりに、父上の仕事の関係でエジプトへ……。
与謝野 昭和二十七年に日本が独立を回復するわけですが、その前に日本国政府は各国に在外事務所というのを置くんです。まだ独立していないから、大使館も公使館も置けなかったんですね。私の父はベルギーの在外事務所の所長として赴任して、しばらくして、母と弟と妹が行っちゃうんですよ。
姉と私は東京に残って、翌年、父の新しい任地のエジプトへ行くんです。このときは公使館になっていて、のちに大使館に昇格するんですが、姉さんが先に行ったのかな。私は学期末まで東京にいて、いまでも覚えているけど、羽田からスカンジナビア航空のDC4型というプロペラの四発機に乗って、南回りでカイロに行ったんです。当時は大旅行なんですよ。給油した場所だけで、沖縄、バンコク、ラングーン、カラチ、それからカイロです。いまはジェット機でピューッと行っちゃうけど、当時は二十数時間かかった。
あの頃、カイロにはフランス人とイギリス人が結構いたんです。スエズ運河もフランスとイギリスが持っていたわけですね。それで弟と妹はフランス語の学校に入り、私と姉は英国人の経営するヘリオポリス・カイロというイングリッシュスクールに入ったんです。英語もよくわからないのに寄宿舎に入れられて、そこで三年間、寮生活をしました。
──どれくらいで言葉が聞き取れるようになりましたか。
与謝野 半年ぐらいでわかってきたように思います。私は中学に入って、数学というのはえらく難しいもんだと思ったんですが、英語で数学をやると簡単なんですよね。というのは、「何をしろ」というのがはっきりしているんです。だから、瞬く間に数学だけは一番になりました。
──戦後まだ間もない頃で英仏は戦勝国、日本は敗戦国ですね。
与謝野 差別されたわけではないけど、日本は尊敬されている国ではなかったですよね。日本なんてみんなよく知らないし、ばかな戦争をやって負けた国ぐらいにしか思われていなかった。やっぱり情けない気持ちになりましたよ。日本を世界から尊敬される一流国にしなければいかんと思いました。それが私の原点になっているだろうと思うんです。
単身ロンドンで受験勉強
──カイロには、どのくらいの期間いらしたのですか。
与謝野 三年間いました。そのあと父がスペインの大使になったものだから、スペインにしばらくいて、それから、ひとりでイギリスへ行って、ロンドンで予備校に通ったんです。大学のサーティフィケート・エデュケーションというのがあって、それに一部通ったものですから、そのもうちょっと上のやつを受験して、オックスフォード大学に行こうと思ったんですね。だけど、途中で「日本に帰って就職できなくなっちゃうと困るな」なんて思って、日本に帰ってきたんです。
そうしたら、麻布の友だちはもう卒業なわけですよ。それで高校三年に入れてもらって、一年遅れで卒業したんです。その三年のクラスに平沼赳夫がいたんですね。
──同級生ですか。
与謝野 クラスメイト。
──しかし、今度は逆に日本に慣れるのが大変だったのでは……。
与謝野 そりゃ、四年近く日本にいなければ、漢字も書けなくなるし、古文、漢文なんてのは全くわからない世界になっている。追いつくのに苦労しましたよ。だから一年間三年生をやっただけじゃ大学に入れなくて、一年浪人して大学に入ったんです。
どこか日本的でないところがある
──与謝野さんは、ものを考えるときに日本語と英語のどちらで考えますか。
与謝野 日本語で考えるんだけど、たぶんみんなと違うんですよ、どこかね。どこか日本的じゃない部分がどうしてもあって、理屈に合ったことをやろうと考える。
──論理的に考える……。
与謝野 ということと、みんなが「右に行こう」と言ったときには、右に行かないという(笑)。みんなが「正しい」と言っているときは「正しくないんだろう」と、いつも思っているんですよ。特に日本人が熱狂の中で決めたこと、日本人が熱狂の中で反対したこと、これは必ず間違ってるんじゃないかなと、いつも思っています。
──先の戦争もそうでした。
与謝野 安保条約反対もそうだし、消費税反対もそうです。
──小選挙区制導入もそうですね。小選挙区制のどこが「政治改革」だかわからない。
与謝野 そうそう。みんな熱狂の中でものを決めているからね。
──父上のDNAもありそうですね。
与謝野 でもないんですが、みんなが「いい、いい」と言うけど、「みんなほんとに考えて、ものを言ってるのかよ」っていう気持ちがあるんですよね。
──下世話な話になりますけど、思春期を海外で過ごして、初恋はあちらで……。
与謝野 初恋は別に外国でなくても(笑)。中学時代、女学生に「ああ、いいな」なんて憧れてたからね。
岩波文庫と東大野球部
──東大ではどんな思い出がありますか。
与謝野 東大に入ったけど、入ってみたらつまらない大学だなと思ってね。授業も面白くないし、ロクな大学じゃないということがわかったので、父が送金してくれた入学祝いのお金で岩波文庫を数百冊買って、家で本ばかり読んでいたんですよね。
──どんな本を読んだのですか。
与謝野 文学書です。日本文学を読破したんですよ。
──外とか漱石……。
与謝野 それが森外と夏目漱石だけは、どういうわけか読まなかったんだ。
──面白いですね。何か理由が……。
与謝野 特に理由はなかったんだけど、森外と夏目漱石だけは読まなかった。あとはほとんど全部読んだと思いますよ。
──みんなが読むものは読まないという反骨精神が……。
与謝野 あるのかもしれない。結婚したら女房が早稲田の文学部で、卒論が夏目漱石だった(笑)。
──大学は講義より読書三昧で……。
与謝野 そのうちそれにも飽きて、友達に誘われて東大野球部に入って、マネージャーを三年半やりました。
その間、大学二年生のときに六〇年安保の騒動があって、クラスの連中はみんなデモに行きましたよ。あるときフランス語の先生に、誰かが「今日はデモに行くから休講にしてほしい」と言ったら、休講にしてくれたんです。だけど、デモに行かなかった学生が三人いた。私はその一人で、その先生が「僕の部屋へ来い」と言って、そこでインスタントコーヒーというのを、生まれて初めてご馳走になったんですよ。「こんなうまいものがあるのか」と思ったな(笑)。
──やはり安保反対の熱狂は、どこか間違っているぞと……。
与謝野 というより、みんなが何に反対してるのかよくわからないわけ。みんなわかった顔してデモに行っているんだけど、私はわからないから参加しなかっただけです。野球部の友達と一緒に国会まで行って、何回かデモを遠くから見物したことはありますよ。そういう野次馬根性はあったんだね(笑)。
中曾根さんの勧めで日本原子力発電へ
──学業のほうはどうでしたか。
与謝野 学業は全くしなかった(笑)。野球部のマネージャーというのは結構、忙しいんですよ。
それでいて三菱商事を受けてみたんです。そうしたら意地悪な面接官がいて、「君は優が一つもないが、卒業までに一個ぐらい取れるのかい」と言うから、「やってみなければわかりません」と答えたんですよね。別の面接官が、いまにして思えば助け船を出してくれて、「でも、一つくらい取れるでしょう」と言ったんだけど、「一つくらい」というのが、バカにされたように思えて、そこでも頑張っちゃって「わかりません」と(笑)。
翌日、三菱商事の重役をしていた父の親友が、「馨君、卒業までに優が一つ取れると僕に約束してくれ。そうしたら採用するから」と言ってくれたんだけど、それも断っちゃった。幼かったんだね。
──男の意地ですね。
与謝野 いやいや、一度言ってしまったものだから、引けなくなっちゃった(笑)。
──それで日本原子力発電に……。
与謝野 ええ。あの当時、私は野球部のマネージャーとして、仲間の就職を全部やったんだけど、自分の就職となると、何をしたいというのが、まだよくわからないわけですよ。父の役人生活を見ていたから、役人になる気はなかったけど。
母にそう言いましたら、「中曾根さんという面白い政治家がいるから、話を聞いてごらん」というんです。母はある会合で中曾根さんと面識があったんですね。それで中曾根さんに会ったら、「これからは原子力が面白いよ。原子力をやったらどうか」と言われて、原電に行くことに決めたんです。
──日本の原子力発電の夜明けの時代ですが、仕事は面白かったですか。
与謝野 誰も何もわからない時代ですからね。全て新しいことだから、それは感激しながら仕事をやっていました。当時、ウラン鉱山については、日本で私が一番知識を持っていたんじゃないかな。三年目からはアメリカへ行って、ワシントン輸出入銀行からお金を借りる仕事を三年間やりました。そりゃ、大きな会社に入るよりは、小さな会社に入って仕事をしたほうが面白いと思いますよ。
──原電には何年いらしたんですか。
与謝野 五年いました。
渡辺恒雄さんに説得され政界に入る
──政治の世界に入ったのは、どんなきっかけが……。
与謝野 会社を辞めるつもりはなかったのですが、中曾根さんからさんざん口説かれたんです。そのとき「秘書になって、将来政治家になれ」と私を説得したのが渡辺恒雄さんですよ。彼に説得されて、この世界に入っちゃったんですね。
──先ほどの日本を一流国にしたいという思いが……。
与謝野 原電にいるときも、世界の国に負けない国にしなきゃいけないと思っていました。それで昭和四十一年にアメリカに行ってみると、まあ豊かな国なわけですよ。
日本はそこから高度経済成長して、われわれの生活は年々よくなりましたよね、バブルがはじけるまで。そういうことを考えると、日本人は豊かさにすっかり慣れてしまった。しかし、日本は少子高齢化の時代を迎えているわけです。高齢化社会は、いくら優しい心があっても支えられないんですよ。もちろん、そういう気持ちも大切なんだけど、やっぱり物質的な基礎がないと高齢化社会は支えられない。
そういう中で、私が一番恐れているのは、日本の国力の劣化ということなんです。国力というのは経済力だけじゃないんですよね。国民一人ひとりの教育水準、気持ちのありよう、向上心、技術力、外交関係、いろんなもので成り立っているトータルな力です。
国力が衰えていくと、日本という国は、あっと言う間に貧しくなる可能性があるんですよ。その恐れというものを、国民が共有しなければいけない。われわれはまだ高度経済成長の遺産で食ってるんです。やがて遺産で食えなくなる時期が来ますから、国として向上する、国力を維持・発展させる心構えをみんなが持たないといけないと思います。年金なんて、いくら議論したってダメなんです。年金というのは、毎年つくられた富の、どの部分を分配するかという話ですから、まず富をつくらなければならないんですよ。
日本が勝てる分野をつくる
──国力の劣化を防ぎ、高めることは可能でしょうか。
与謝野 可能ですよ。いま資源はお金さえあれば手に入る時代です。それがいつまで続くかはわからないけれども、世界の市場も開放されているし、そういう意味では、日本人が一生懸命働けば、稼げるチャンスはものすごくある。ただ、中国という有力な競争相手も出てきました。だから、どこかで勝てる分野をつくらなきゃいけないわけですよ。オリンピックと一緒で、陸上では勝てないけど、柔道では勝つというね。
──政治家になって、後悔したことはありませんか。
与謝野 精一杯やってきたつもりなんですが、人間というのは色気があるから、「ほかの分野でやっていたほうがもっと成功したかな」なんて思うこともある(笑)。だけど、それは自分に対する欲目でね。
──これまでの人生で壁にぶつかったことはありますか。
与謝野 それはやっぱり落選ですよ。前職で二度落ちている。一回目はある程度説明がついたんだけど、前回、二回目の落選はショックでした。
自民党の特質は責任ある行動
──自民党は単独では政権を取れない状態が続いていて、特に都市部で弱いですね。先生は来年の自民党結党五十周年に向けて「基本理念」をつくられているそうですが、自民党再生のシナリオは……。
与謝野 平成五年の選挙で自民党が分裂して細川政権が誕生した。自民党は長年慣れ親しんできた政権党の座を追われたわけです。その後遺症で、何がなんでも政権の座に踏みとどまろうという気持ちが強いんですよね。それは当然といえば当然ですが、やっぱり責任ある行動をとる責任政党というのが、自民党の一番大きな特質なんです。安保条約もそうだし、消費税導入もそうですが、責任ある行動をとるというところを取り戻さなければいけないということが一つあります。
いまは政策の叩き売りみたいになっているでしょう。民主党の岡田克也さんの政権構想なんか見ても、ポピュリズムと言うか、国民に対して安易な迎合をしている部分がいっぱいあるわけですよ。それは自民党も同様で、そこを脱却しなければいけない。小選挙区制では、どうしても迎合するようなことになるんですね。だから、小選挙区制はダメなんです。
──小泉さんは実はポピュリストではありませんか。
与謝野 まあそれでも公共事業費抑制とか言っているから、政策的にはポピュリズムとは言わないんだろうと思うんです。だけど、もう少し説明を尽くすということがないといけない。改革は何のためにやっているのか。私は国力を維持・発展させるための改革だと言い続ければいいと思うんです。そういう説明を、小泉さんばかりじゃなくて、自民党の政策を担当している連中がやらなければいけないんですよ。
──最後に座右の銘というか好きな言葉がありましたら……。
与謝野 特にないんですが、「諦めない」ということでしょうか。
──ありがとうございました。
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