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トップページ > 記事・論文・講演
> こころの玉手箱
一八二三年冬のウィーン。死相漂う老人が暗い病院の一室で自らの人生を語り始める。華やかな宮廷音楽家だった自分。そこに現れた野卑で軽薄な天才、モーツァルト。下品な言葉で人を傷つけて楽しむ天才を思い出しながらつぶやく。
「彼を殺したのは私だ・・・」
映画「アマデウス」。初めて見たのは日本がバブル景気に酔いしれていた一九九〇年ごろだったか。プロローグのサリエリの独白から二時間半。「芸術と人格は無関係」という主題を描いたこの映画を一気に見終わった時、私は初めて祖父・与謝野鉄幹と祖母・晶子が共有した複雑な空間に触れたような気がした。
才優れる者と劣る者の紙一重。芸術の残酷。鉄幹と晶子の関係はモーツァルトとサリエリよりも起伏に富んでいるように思える。短歌革新のリーダー、鉄幹にあこがれた晶子だったが、程なくして二人の立場は逆転する。
一日三十首が自然に詠めてしまう晶子に一首ですら青息吐息の鉄幹。家事、子育て、家計…。すべてを担った晶子とさまよう鉄幹。それでも別れない二人。巨大な才能と向き合える人間としての魅力が鉄幹にあったのか。晶子には欠け鉄幹に備わっていたものは何だったのか。自分はどちらなのか。私の心にぐさりと突き刺さった。
幼少のころから音楽は好きで手回し式の蓄音機でモーツァルトを聴いた記憶はある。だが祖母のような芸術の才能は縁遠く、むしろ人と人を結びつける周旋に長けた鉄幹に鉄幹に近い政治人生を二十年近く続けてきたところで「アマデウス」と出会った。
人間の才能の発露は複線形だとつくづく感じる。全くそぐわないような、釣り合わないような才能が反発しあったり引かれあう不思議。それこそが人間の本質か。アマデウスを見てそう思った。政治の世界の深淵もその辺りにあるのだろうが、その本質はまだ私には見えない。多分永遠に見えないかもしれない。
アマデウスを見た数年後だったろうか。勘当されて鉄幹に嫁いだ晶子の実家と与謝野家の断絶の手打ちを仲介しようとしてくれた人がいた。不幸と幸せが同居していた祖父母の家同士の手打ちだけは私の役目と思ったがまだ果たせないままでいる。
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