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エネルギーフォーラム 父のこと


私の父は外交官でした。昭和二年、外務省に入省し、最後は原子力委員を務めるなど、一生公の職に就いていた人でした。

父に「なぜ外交官になったのか」と聞いた事がありますが、与謝野鉄幹がどうしても息子一人を外交官にしたいという希望を持っていた事と、「昭和二年は日本は大変な不況であまり就職先がなかったからだ」とよく言っておりました。
父と子は、特に男の子はあまり話をしないということはわが家庭でも当てはまっていて、子供の頃あまり父と話をした覚えがないのです。しかし、今の年になってみると、父がどんな生き方をしていたのかということをいろいろと想像してみたくなるのです。

父は昭和十年代、外務省の中で孤立をしながらも日独伊枢軸外交に反対をしていた人ですから、外見的には大変美男子で優男でしたけれども、反骨の精神も持っていたのだと思います。その父が昭和十八年自分が最も嫌がっていたドイツに赴任を命じられ、五才の私は父を東京駅に見送りに行ったのを覚えています。きっと、北陸地方から船でウラジオ辺りに渡り、シベリア鉄道でベルリンに行ったのに違いないと思います。昭和二十年の初め、連合軍のベルリンの空爆は激しさを増して、 ベルリンの日本大使館は撤去を決めたのです。

晩年の父は私とよく話すようになっていましたので、ある日、「大使館から全員がスイスに逃げる時に親父の役割は何だったのか」ということを聞いたことがあります。父は「自分は日本大使館にあったお金を全部集めてリュックサックに詰めて、スイスのベルン迄運ぶ役割だった」と説明を受けましたので、重ねて私は、「どんなお金も持って逃げたのか」父に聞いてみました。きっと、スイスフランか何かと想像していましたけれども、父の答えは、「当時ベルリンの日本大使館が持っていたお金はドルだったよ」と。私は戦争している米国のお金がドイツで通用していた事にも驚きましたし、日本政府はドルでないと国際的に通用しないという事をよく知っていたのだと思います。
円の国際化という事がよく言われますけれども、この例を見ても、円が国際的に通用するには経済力だけではだめだということがはっきりしているのだと思っています。

日本の経済を早く回復させて、ドルやユーロ並みとはいかない迄も、アジアなどで決済にしばしば使われる通貨になる日が待ち遠しいものです。

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