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ボーイスカウトと私

私が長野県の疎開から東京に帰ってきたのは昭和二十一年初め、ただちに港区立麻布小学校に入学し、小学生時代五年間を六本木を中心とした町ですごしました。ごく自然に麻布中学に進み、中学一年生の時からボーイスカウト東京第四団に入会をさせていただきました。
その当時、私の家は麻布の新竜土町にあって、私をボーイスカウトに誘って入れて下さったのは今田富士雄さんです。

霊南坂というのは今も思い出せば素敵な坂で、そこを登り切った所に霊南坂教会がありました。東京第四団の本部はその霊南坂教会の尖塔の小さな部屋にあり、らせん階段をぐるぐる回ると団室に至るという今にして思えば大変優雅な風景の中にありました。

霊南坂教会には庭もあり、ガールスカウトも存在していて、私にとってそこで過ごした二年間は自分の少年時代の良き想い出であり、良き友達に恵まれた二年間だったと思います。

よく思い出すのは、今田さん、飯田さんが、ウクレレを弾いていた『コロラドの月』という曲です。私を最初にボーイスカウトに誘ってくれた今田さんは、実家は六本木の誠志堂の隣りにある小さな和菓子屋さんで、その当時はお父さん、お母さん、お姉さん皆健在で、私はその家によく遊びに行きましたし、今田さんも新竜土町の我が家に遊びに来ていました。

二級スカウトの試験に合格したときの後で、中学三年からは海外に行ってしまいましたのでボーイスカウトの活動はそこで終わりになったのですが、ボーイスカウトの団体生活で学んだ事はその後私の人生にとって大切で貴重な体験となりました。

昭和二十六年、二十七年、二十八年の頃の話ですから物も乏しく貧しい日本でしたけれども、今考えるとこの時代は輝いていた。一つ一つの事が大切で、一つ一つの物が貴重に思えた時代だったと思います。
土曜日の午後、霊南坂に通って訓練を受けていましたが、河口湖では夏のキャンプ、蔵王でのジャンボリーへの参加、これほど懐かしい思い出はありません。

河口湖では、風邪気味で頭が痛かった私に誰かがアスピリンをくれてそれがよく効いた事、川に皆で泳ぎに行った事、川の水で冷やしたトマトが塩をつけるとあんなにおいしいものであった事、帰り道重い荷物を背負って長い道を歩いた後友人がくれたドロップの一粒が素晴らしくおいしかった事…等々想い出はつきません。
その当時の写真を友人の一人が数年前に複写して私に送ってくれました。かわいい少年時代の自分の姿を見つけて、こんなよい時代もあったのだなと思いました。

詳しくはわかりませんが、蔵王で開かれたジャンボリーの大会はおそらく戦後初めての大きな大会だったと思います。東京第四団からもたくさんの人が参加し、私も参加して、キャンプファイヤーや集団での生活、少年として感動を覚えたものです。

缶詰の鯨の肉の大和煮はその当時は贅沢品でした。それをおかずにしながら飯盒で炊いた御飯のおいしさ、今でも貧しかった時代そのような事に感動していた自分を懐かしく思うのです。
その他大きなイベントとしては夜間三十キロの走破というのに参加した事があります。こんな事は全て辛いのですが、走破し終わった途端の喜びというのは大きなもので、今の子供たちの教育の中にも、困難を乗り越えた後の喜び、そういう教育があってもいいのではないかと思っています。

昭和五十一年衆議院に初当選してからは、都議会議員の平山羊介さんや衆議院議員の桜内義雄先生が熱心だった「ボーイスカウトを支える議員連盟」の一員ともなって陰ながら全国のボーイスカウト活動を支援する側にまわりました。
文部大臣に就任した平成六年・七年には大分県で大きな大会があり、文部大臣としてそこに呼ばれ、挨拶をすることとなりました。

東京第四団の関係者が現役を退かれてからも、東京都全体のボーイスカウトや全国のボーイスカウトのために役員として汗を流していることを知ってはおりましたが、大分に行って驚いたのは第四団出身者が大変大事な役割を皆担っているという事です。

少年時代の友達は勤めに出ている方もおられるし、家業を継いでいる方もおられるし、いろいろな方がいろいろな場所で皆元気にやっておられます。その方々に会うと、私の時代は昭和二十年代に一瞬にして戻り、世の中は貧しかったけれども、あの時代は私の人生にとって黄金時代の想い出に思えてならないのです。

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