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経歴

2015年11月12日

私の歩んで来た道(5)

昭和20年のことだったのですが、小学校入学を目前にして、私は母に連れられて東京の自宅に参りました。
多分母は何かの用事があったのではないかと思います。留守を守っていたのは「石井しず」という「ばあや」で、麻布の朝屋という酒屋の世話で、住み込みとして来ていただいた人です。
東京に着いたその時空襲警報が鳴り、母・私・ばあやは避難することになり、石井柏亭さんの鉄幹・晶子の肖像画(今は日本近代文学館に寄託してあります。)を担ぎ、その他は何も持たずに家を出たのです。
行く先は、麻布三連隊。
私達をその前庭に避難させてくれました。(丁度今の国立新美術館のところです。)
そこにはB29を狙う高射砲があり、また探照灯もあり、しきりと打っていました。今のミッドタウンからは曳光弾が見え、対空砲火をやっていたのです。レーダーもなく、サーチライトでB29を見つけ、それに向かって打っていたのです。
しかしB29は10,000mという高度を飛んでいたので、こちらの「戦闘機」が飛べない高さだったのです。さながら夜のショーのような情景でしたが、どんどん「焼夷弾」を落とされ、これが後に三月の大空襲と呼ばれるもので、たくさんの一般の国民が亡くなられたのです。
しばらくすると兵隊さんから別の場所に行けと命ぜられ、今の政策研究大学院大学の所の崖に横穴が掘ってあり、我々はそこで爆撃が終わるのをじっと待っていたのです。幸いにも私達は怪我ひとつなく、帰ってみたら家には火が及んでいなかったのです。
その機会だったと思いますが、人に連れられて公園(多分日比谷公園)に撃墜したB29を見にいきました。壊れた部分は板で補って展示されており、そばには「日本の戦闘機」も一緒に置いてありました。子供の目で見ても、B29は大きく、戦闘機はずいぶん小さく見えました。多分戦意を高めるための展示であったのです。
子供の頃から「防空頭巾」「バケツリレー」というのは知っていました。沓掛に帰るのは、上野から蒸気機関車の引っ張る列車で横川まで、そこからは「碓氷峠」を登るために、前と後に電気機関車がついて、軽井沢まで行く。滑り落ちないためにレールの真中に歯車がかめるように出来た、三本目のレールがあり、これをアプト式と呼んでいました。晶子の歌に「二十六都の西のトンネルをくぐれば・・・・・秋風ぞ吹く」というのがありますが、「碓氷峠」には本当に26のトンネルがあったのです。蒸気機関車はノスタルジアとして皆から愛されていますが、短いトンネルにでも入ると、煙が客室にまで入ってくる。
今では考えられない旅でした。
今は東京~軽井沢は1時間ちょっとですが、昔は横川で機関車を代えたり、相当の長旅であったのです。

昭和20年4月私は小学校に入学しました。軽井沢小学校千ヶ滝分教所という名前がついていて、運動会は本校まで下っていきました。その時代どんな勉強をしたのか、どんな日常であったのか全く覚えていないのですが、遊びとして、釘を地面に刺して相手を倒したら、釘をいただけるという遊びをしていましたが、私が釘を持っていなかったので、羨ましそうに見ていたことは覚えています。
小学校に入って「君が代」を覚えて、また「海ゆかば・・・」という歌を意味を理解しないまま歌っていました。煎じ薬にゲンノショウコが良い、皆で集めて来いという指示があり、私も懸命に集めました。広い講堂がゲンノショウコでいっぱいになった様子は覚えています。
国会議員になって、ある時米国のワシントンを訪れました。我々を世話して下さった館員の一人に志方さんという武官がおられました。その方が私に「女房が与謝野さんに会いたい」と言っているので是非会って下さいと言われる。人様の女房から会いたいなどと言われるのはただごとではないと思ったりもしたが、喜んで承知した。
次の日、朝食を3人で食べた。奥様は次のように述べられた。
「私は小学校1年生の時、与謝野さんと同じクラス(担任は大池先生)でした。その時のことはとてもよく覚えています。与謝野さんは毎日星野温泉の近くに住むA君と取っ組み合いの喧嘩をしていましたよ。あまりに凄いので、私はその時から男性恐怖症になりました。先生が怒って、与謝野さんをクラスの室から追い出したことがありました。見ると窓の外からクラスの様子を首から上で見ていました。私は小学校4年までいましたが、そのA君は素行が悪いので社会から叱られていたようです。」小学校の面影はもうない。今は西武のテニスコートになっている。ただし映像は残っている。
「カルメン故郷に帰る」、総天然色、木下監督、高峰秀子主演という映画のロケはあの小学校の校庭で行われ、それを見ると粗末なバラック小屋が映っている。

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