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経歴

2015年12月3日

私の歩んで来た道(7)

私が通いはじめた麻布小学校は、明治4年か5年に開校した都内でも最も古い小学校のひとつである。
疎開から帰った六本木の家はまったく変わってしまっていた。

まずはじめに、我家の隣の麻布三連隊はもうなく、米軍が駐留していた。朝には星条旗がポールを上がっていき、夕方にはラッパとともに旗が降ろされるという毎日。塀は昔のものはなく、刑務所の塀くらいの高さのものに、代わっていた。
私の部屋は丁度米軍の娯楽施設の塀越しの隣にあって、毎晩のようにジャズが奏でられていた。六本木の交差点はその中心に米軍のMPが立って交通整理をしていた。
Please give me some chocolateなどという英語は子供達は皆知っていた。日本軍が消え去って、米国の軍隊がそこに居る。今思えば、なんと恥ずかしいことか、戦争を始めた日本は、310万人もの命を犠牲にした上に、首都東京のど真ん中に米軍がいる。
夜の街には「娼婦」が立っていて、米兵を誘っていた。この夜の女のことを大人はパンパンと呼んでいた。言葉をかえれば六本木は基地の街になっていたのである。

私が小学校2年生の時、PTAというものが初めて作られた。父兄会のことであるが、洋風の名前になって、何か新しいものと受け止められていたのであろう。故竹下登先生が、昔日本人が知っていた英語は、PTAとDDTだとよく冗談を言われていた。衛生状態が悪かったから、しらみ退治はDDTを頭からかけるというような今から思えば無茶なやり方をしていた。
その頃の恐ろしい病気は結核であり、我々は天然痘とともに予防接種をされた。今でも腕にはその時の痕が残っている。
食糧事情は悪く、人々は田舎に出かけて米を仕入れてくる、これは法律違反で「ヤミ米」と呼ばれていた。「ひえ」や「あわ」を米に混ぜる、さつま芋は「俵」に詰められて配給される。砂糖は贅沢品で「ズルチン」とか「サッカリン」という人工甘味料が日常的に使われていた。アミノ酸醤油というものもあった。米は配給、切符制で、お米が余って困るという現代の悩みとは全く正反対であった。
貧しい事は悲しいことである。「モク拾い」という、人の捨てたタバコの吸い殻を集める商売、靴を磨いてお金を稼ぐ少年。ニコヨンという日雇い労働。
給食が始まって我々が口にしたのは、コッペパン、脱脂牛乳等々。ある時期は米国の援助で成り立っていた食糧事情。住宅事情も悪く、住まいのない学校の先生は、小学校の理科の実験室が仮の住まいであった。
幸いにして私達の家は焼けなかったが、住まいのない萩原徹さん(後のフランス大使)の一家が狭い我が家に同居した。私の母が弟のトオルを叱ると、同じトオルの萩原さんが飛び上がる。カオルを叱ると、萩原さんの長男のカオルさんが飛び上がる、今にして思えば、滑稽な風景だった。
小学校は勿論男女共学。3クラスあって、1クラス大体55人位いた。

我家では昭和22年、妹の「文子」が誕生した。
父親はお金には縁のない人で、母は随分苦労していたと思う。それでもあの混乱の中で、借家を買い取り、それが今の住まいとなっている場所である。
小学校の担任は松長先生。怖かった。往復ピンタをよくくらった。
今、体罰は天下の悪といわれるが、私はそうは思っていない。ホウキで殴られたこともあったし、それは厳しいものであった。勉強をした覚えは全くない。読んだ本も漫画の「のらくろ」と「冒険ダン吉」くらいである。
遊ぶ場所はいくらでもあった。焼け跡である。家の近くにも広い焼け跡があったし、小学校の裏には、旧満州国大使館が瓦礫となっていて、よく塀を乗り越えてそこで遊んだ。(今の外務省の飯倉公館である)
「かくれんぼう」「鬼ごっこ」「缶けり」などは近所の子供達との日常であった。午後小学校から帰ると「紙芝居屋」さんが来る。子供達に「あめ」を売って、紙芝居をやる。自転車に乗せた道具で一枚一枚朗々と物を語っていた。
私は「おこづかい」がなかったので、後ろの方でタダで見物していた。感激したのは「怪人二十面相」という出し物で、私はとても感動した。近所におませな子がいて、皆に「オイチョカブ」を教えた。おもちゃの紙幣を買って来てそれで勝負をした。野良犬はたくさんいた。かまれると狂犬病の恐れがあるのでそのことは気をつけていた。「氷や」さんという商売があって、リヤカーに「氷」を積んで売りに来る。一貫目いくらという値段で買い求め冷蔵庫に入れる。(電気冷蔵庫はまだなかった)
選挙をやるようになって、その氷やさんとお目にかかった。「カオル君にリヤカーの後押しをしてもらった」と嬉しそうに話された。魚屋さん、豆腐屋さん、竹や竿竹売り、その情景は今より豊かだったと思う。

私は今のミッドタウンの前から六本木交差点を経て、ロシア大使館の近くの小学校まで通った。今と違ってネオンサインひとつない場所であったのである。小学校のあった飯倉片町は日本で初めて天文台ができた所で明治のその頃は空も十分暗かったのだと思う。(天文台はその後三鷹に移った)
小学校は鉄筋3階建てで、教育施設には予算を使うという哲学が良く表われていたと思う。私の父は一高時代、インターハイで高飛びで新記録で優勝したり、大学に行ってからは、冬はラグビーそして東大野球部にも属していたスポーツマンである。よくラグビーで「鼻」の骨を折った。鉄の棒で真っ直ぐに直した。などという話を父がしていた。残念ながら私は走っても早くないし、運動神経がすぐれていたわけではない。小学校5年生の頃だったと思うが、ラグビーというものを持ち込んだ友人がいて、いわば取っ組み合いをしていた。私はずっとクラスのトップに選ばれていて、それなりの模範的な行動をしていたと思う。

しかしある時、先生が我家を訪問した。
その時私は友人の吉田暁生君の父親の会社の運動会を見に行った。サイダーは飲み放題、アイスクリームもたくさん食べられた。時間を忘れて楽しんでいた。先生が家庭訪問をしたのに一向に帰って来ない。どこに行ったかも判らない。
先生は怒って次の日、この事をクラスに報告し、「こんな人がクラス委員をやっていていいのでしょうか」と皆に問いかけた。答えは「いけません」ということで私はクビになってしまった。
前の席に座っている女の子の頭をソロバンで叩いて、その子の家まで母親と謝りに行ったことがある。クラス全体では、六本木の坂上のグループと坂下のグループが対立していた。我が方も力持ちや喧嘩の強い子がいて勢力は均衡していた。私も強い友人達のおかげで、いじめにもあわずに済んだ。
プロ野球も人気があり、プロマイドを集める子供もいたし、赤バットの川上、青バットの大下などの名選手のことは皆が知っていた。私もグラブが欲しかった。
お金がないので母は中古(ちゅうぶると母はよんでいた)のグローブとバットを私に買ってくれた。バットの先にグローブをのせ、肩に担いで学校に通っていた。それを落としてしまった。本当に情けなかった。
母からは「熊がさけを担いで落としたのと同じだね」とからかわれた。

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