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経歴

2015年12月10日

私の歩んで来た道(8)

小学校時代のことで特に思い出の深いことをいくつか書きたいと思う。
子供の頃から子供はどうしてできるのか不思議に考えていた。小学校4年頃、私が到達した結論は結婚式を挙げると自然に子供ができるということであった。しかし学校では、性教育が始まり、「めしべとおしべ」の話から人間のレベルの話になり、謎はとけた。これは小学校5年生のことである。

それと同じ頃「フォークダンス」というものをやらされた。女の子とダンスを踊るのはとても恥ずかしかった。性の知識は全くなかった。それを学ぶ本もなかった。私にとって唯一の情報源は読売新聞の「人生案内」であり、そこで男と女の色々な出来事、悩みを知ることができた。「私は全てを失いました。もう私の夢や将来はない。」式の読者の悩みが掲載され、それに答えが載っていました。わからない言葉は辞書をひいて調べましたが、昔の辞書は性に関することは逃げて書いてあり、困っていました。
クラスの仲間で、では子供は何処から出てくるのかという議論になり、「お腹を切る」から始まって諸説がありました。家の近くで野良犬が交っているのを見たこともあり、人間も同じようなことなのかなと納得したわけです。
私の友人の一人が私に向かって「お前の家は子供5人だからお前のおやじとおふくろは5回もスケベなことをやっている。俺の家は2人兄弟だから2回だ。お前の親の方がうちより、スケベなんだ」私は返答に困ってしまいました。
今は性に関する情報はあふれかえるほどですが、その頃はそんな情報は手に入れることは不可能でした。「チャタレ―夫人の恋人」が猥褻とされた時代でしたから、それでも友人達と情報交換しながら、少しずつ性に関する知識を知識を広げていきました。
それでも小学校6年生にもなると、恋心というものが出てきて、クラスの中で好きな女の子ができました。その子と話をすることが楽しみということで、自然に芽ばえた感情です。いわば初恋というものですが、何の進展もあるはずはありませんが、中学1年生の時、小学校の運動会に行って、その子の姿を見た時は、本当に感動をしました。
色々なことを知ってしまうと、恥ずかしさというものが出てきます。話をしてても、街ですれ違っても、女の子をまともに見ることはできない。いわゆる思春期が始まったのでしょう。

小学校の卒業まで、日本は独立していませんでした。占領軍が日本を統治していたのです。マッカーサー元帥がそのトップで、子供達まで、その名前をよく知っていましたし「元帥」が持っている力は非常に大きいことも、皆よく知っていたと思います。
マッカーサー体制は日本に酷いことをしたとは、私は思っていません。昔から戦争で勝った方は好きなことを何でもやるということが当たり前でした。
例えばジンギス・カーンはバクダットを滅ぼしますが、あの華やかな首都を徹底的に破壊し、今でもイラクの人には「蒙古はんてん」が残っているほど残虐の限りを尽くしました。
それに比べて、日本の占領は穏やかなものと言っていいのではないかと考えています。いわば見せしめに「7人が死刑になりましたが、日本を滅ぼすということは米国はしなかったのです。

朝鮮戦争が始まりました。ラジオは臨時ニュースを流し戦争が始まったことを国民に知らせました。
北側の優位が続きました。私の隣の基地からは機関銃を積んだジープ等が隊列を組んで出発していきました。
国連軍がプサンまで追いつめられそうな時、マッカーサーは敵の背後の仁川に上陸、劣勢をはね返し、逆に北側を中国の国境近くまで追いつめますが、突然中国が参戦、人海戦術と当時いわれた、兵士が幾ら死んでもよい、前に進むだけでよいという戦法で押し返しました。
これを見たマッカーサー元帥は核兵器の使用を提言しますが、トルーマン大統領に首にされ、本国に呼び返されます。
マッカーサーが日本を去る時、日本人はとても残念に感じたのではないでしょうか。占領軍のトップは本当は憎しみの対象になるはずですが、子供心にも私はマッカーサーという人は偉い人、日本を去っていくのは残念なことだなと思っていました。私は占領軍は善政を敷いたと思っています。

あと小学校時代のビックニュースは湯川博士のノーベル賞受賞のニュースです。
明るい話題の乏しいその頃の日本にとって、希望と勇気を与える偉業であったと思います。
敗戦によって自信を失っていた日本人に大きな支えを与えたと思います。
小学校でも話題になり、中身のことは誰も理解していなかったと思いますが、皆が「これはたいしたものだ」と誇りを持っていました。

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