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経歴

2015年12月17日

私の歩んで来た道(9)

小学校5年生の頃だったと思うが、我が家に異変が起きた。
母親が小さい出版社を立ち上げマンガの月刊誌を出版した。もとより資金もなく、専門的な知識がない人間がやる仕事だから、うまくいくはずもなく、返本。返本の山でまもなく倒産した。
母親は子供4人を育てるために父親の役人の給料だけでは不十分だと始めたことであり、何人かの方が応援して下さったが、うまくいかなかった。返本された物を叩き売る、いわゆる「ゾッキ本」という言葉を覚えたのもその頃である。
母はその後も懲りもせず、「繊維製品」の卸売会社を立ち上げるのだが、商売はうまくいかず、手形のお金が払えない、我家には借金とりから怖い電話が毎日掛かってきて、受話器をとると怖い言葉で子供の私まで脅かされていた。私の電話嫌いは、そこから始まっている。
母は善意の人であったから、この2つの件も静かに終了した。私も小学校6年生となり、この後どうするのかということになった。

何もしなければ、区立の中学校に進めばよいのであるが、近くに麻布中学という学校があり、そこを受験することにした。今と違って「麻布」は別に有名校でもなく、むしろ一中などを失敗した人の行く学校のようだった。
特段の受験勉強は誰もしていなかった。勿論「塾」などというものは存在していなかった。私のクラス6年2組からは5人が受験し4人が合格した。他の2つのクラスからも合格者が出たので、その年次だけで区立麻布小学校から私立麻布中学には7〜8人が合格した。
今の受験競争が激しい時代からみれば、夢のような数字であるが、麻布中自体がそんな有名校ではなかったのである。

その頃人に誘われて、ボーイスカウトに入った。
東京4団は「霊南坂教会」にあり、部室は教会の建物のトンガリボウシの一番上にあり、狭いらせん階段を上がっていった。その活動は小学校6年生から中学2年生の終わりまで3年間続いた。楽しかった。
印象に残っているのは、キャンプである。
蔵王山で全国のジャムボリーもあった。河口湖の近くでキャンプをしたこともあった。テントを張り、焚き木を集め食事を作る、何もかも新しい体験であり、私の心の財産である。食べ物でおいしかったのは「くじらの大和煮」の缶詰め、それと「ハンゴウ」で炊くお米の味である。
河口湖のキャンプで私は頭が痛くなった。人が薬をくれた。すごく良く効いてあっという間に頭痛は治り、薬の力というものを始めて経験した。アスピリンである。
ボーイスカウトには階級があって、知識と実技の試験があり、私は「2級」までいった。あと一歩で「1級」になれるところだったが、海外に行くことになり、それは実現できなかった。

学業の方はどうかといえば、低迷していた。中学1年の期末の試験の平均点は55点であり、多分学校中で一番出来の悪い生徒であったと思う。一度は担任の海野先生から、呼び出され部屋に行くと「与謝野君、君は家に帰ってどの位の時間勉強するのか」と尋ねられた。私は「学校で勉強しているので、家に帰ったら勉強はしません。」と応えた。事実近所の仲良しと遊びまわっていた。楽しいことはいくらでもあった。先生は「15分でも良いから家で予習・復習をやって下さい」と優しく私に忠告して下さった。それで少し勉強してみたが、平均点は63点までしか上がらなかった。
性に関する興味は大きく、時々「内外タイムス」などという新聞を手に入れて読んでいた。

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