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経歴

2015年12月24日

私の歩んで来た道(10)

戦後の混乱の中で父は外務官僚を続けていたが、局長になった時は同じ年次の中で一番早く局長になれたと嬉しそうだった。

占領時代も終わりを告げそうになった。
戦って勝った国との間で講和条約が結ばれることになったが、世の中では「単独講和」と「全面講和」で意見が分かれていた。要するに戦争に負けた国が「独立」を回復するということである。全ての国と講和条約を結ぶというのはとても時間がかかり、無理な話であった。
独立の日が近づいていることから、政府は各国に「在外事務所」というものを設け、外交の回復に備えた。
父はベルギー国の在外事務所の所長に就任することになり、横浜港まで父を送りに行った。航空機で世界を移動するまでにはなっていなかった。横浜でその日食べた初めての中国料理の美味しかったこと、映画に出てくるような船が出発する時、紙テープを投げて別れを惜しむということを初めて経験した。(今はロンドン往復5万円だそうで、夢のようなことである)

父親が最初に出かけ、後に母親が弟(達)と妹(文子)を連れて合流した。私と姉の綏子は学業の関係もあって、東京に残留した。
その当時は通信手段はもっぱら手紙であって、航空便ということ自体が贅沢なものであった。私も時々手紙を書いていたが、中学2年生の時母に出した手紙で自分は勉強ができないので、東大を目指すということは諦めてください」という趣旨を書いた。後からこの手紙は物笑いの種となって、母から「馨は随分諦めが早いのね」と言われた。
ベルギーという国は大きな国ではなく「フランス語」と「ドイツ語」に似た『フラマン語』が使われていた。弟と妹は夫々フランス系の学校に入れられた。
手紙で知ったのであるが、「子供も水の代わりにビールを飲む」という話はとても印象的だった。日本のように水道水が飲料水になるわけではないことを知ってびっくりした。

東京に残った私と姉は婆やと3人で静かに暮らしていたが、実際に講和条約が結ばれ、日本の外交が元に戻った時、父はエジプト公使に任命された。そこで私も麻布中学2年生を修了した時、学校を退学し、両親の居るエジプトに向かうことになった。
羽田空港から出発するのであるが、友人達がわざわざ大勢で見送りに来てくれた。海外に行くということが重大であった時代の話である。
スカンジナビア航空(SAS)のプロペラ機(DC4)でカイロまでの長旅はとても辛かった。まず沖縄で降り、香港、バンコク、ラングーン、カラチを経てようやくカイロに到着する。よく揺れて何度も気持ちが悪くなった。

小学校、中学校時代を振り返ると、今の子供のように学校の後に「塾」に行かないと学業のレベルが十分でないという話などはなかった。好きな遊びや模型作り、天文学の勉強など自分が満足できることをしていた。このことは本当に幸せであったと思う。

私が最初麻布に入った時は、そんなに素晴らしい進学校ではなかった。麻布の周りには有名な女学校があった。東洋英和、東京女学館等々である。
喧嘩はしたことがない。殴ったり、殴られたりということは一度もなかった。いじめなんかも、小学校、中学校を通じて一度も目にしたことはない。

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