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経歴

2016年1月7日

私の歩んで来た道(14)

エジプトの夏は熱い。しかし湿度は日本程高くないから、体感温度は日本程ではない。
夏になると人々の生活は変わる。カイロの中心の商店は、夏は午前中で店を閉める。そして皆昼寝をするらしい。そして少し涼しくなった夕方に店を開く。そして富裕層は夏はアレキサンドリアに移る。アレキサンドリアは海岸の街でトレミー王朝が栄えたところ、御存知美しいクレオパトラが王を務めていたところである。クレオパトラはジュリアス・シーザーと恋仲になったし、その後はアントニオとも一緒に暮らしていたのではないか。(映画になっている)
アレキサンドリアという名前はアレキサンダー大王の名前をとったものであるが、ここには当時大図書館もあったし、16世紀まで人間を支配した『天動説』はここの天文観測の結果出て来たもので、ギリシャ文明が栄えたところである。
今古いエジプト文字が解読されたのは、ロゼッタ・ストーンの解読から始まる。

この小さな石碑にはギリシャ語、コプト語、古代のエジプト語で書かれている「クレオパトラ」という文字がある。
皆古代エジプト語は表意文字だと思っていたが、実は表音文字であることを発見したシャンポリオンという学者によって解読された。
地中海のギリシャ文明の都市アレクサンドリアもクレオパトラを最後の王として滅びる。
ここに夏、人が集まる。
私の家族も安いホテルの室を借りて、夏の間数週間ここで過ごした。海は透明で砂浜は美しい。エジプトはナイル川の両岸での農業は例えば米は五毛作が出来る。従って豊かな場所、国であったと思う。

今から5,000年前、メソポタミア(今のイラク)文明、エジプト文明、中国文明がほぼ同時に起こった。日本も5,000年前良い水準までいっていたが、文字がなかったのは大変残念で、日本の歴史は文字で判っているのは6世紀以降である。
カイロの中心、ナイル川の中之島に、ギジラ・スポーツティングクラブというものがあって、会員制となっていた。
競馬場、ゴルフ場、サッカー場、テニスコート、プールなど全て備えられていた。父が大使であったので、その特権で私達もメムバーになることが出来た。私は休みになるとここでもっぱら水泳の平泳ぎの練習をしていた。
植民地時代は終わったとはいえ、英仏の影響力は色濃く残っていた。カイロは中近東、アフリカを通じて一番大きな都市であった。
例えばオペラ座なども持っていて、イタリ―のオペラが冬になるとやって来ていた。(今日本の援助でこのオペラ座はモダンなものに建て替えられている)私達が住んでいた場所からギザのピラミッドは見えた。ピラミッドを見ると、こんな大きな物をどうやって作ったのかと驚かされるし、カイロの中心街にある、博物館に行くとエジプト文明のレベルの高さに驚かされる。
私がカイロに居た3年4ヶ月。
ナギプ将軍がナッセル(多分大佐クラス)に譲り、王制時代とは違う政治体制になっていた。但しイスラエルに対する気持ちは強く軍備の増強に力を入れ、私の寄宿舎の窓からは、ミグ15戦闘機(ソ連製)が飛んでいるのが毎日のように見られた。

私の学校生活の方に話を戻すと、英語は少しずつ上手くなっていった。勉強も出来るようになって、算数や幾何学は英語でやるとこんなにやさしいのかと思ったし、この分野ではクラスの一番になっていた。勉強の目的は何かといえば、英国の大学(例えばオックスフォード)の入学資格をとることで、OL、HLと2段階あって、私も高1の時OL4科目に合格した。(合格証は戦争の為、送付されなかった)
エジプト社会の人達は英国の大学をめざして必至で勉強していた。
私と音楽の楽しみは別に書くつもりであるが、私が初めてクラッシック音楽というものを聞いたのは、アレキサンドリアである。モンターザ宮殿という所があって野外音楽会が開かれ、そこに聞きに行った。ベートーベンの交響曲5番運命を初めて聞いて、すっかりクラッシック音楽のとりこになった。(勿論ピアノ曲は別だが)

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