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経歴

2016年1月25日

私の歩んで来た道(23)

東大受験に失敗した私は、専ら読書にふけっていた。
少ない小遣いで六本木の誠志堂で新本を買い、読み終わると交差点の反対側にある誠志堂の古書店に売り、資金を得てまた別の本を買うということが多かった。
当時読んだ著作で今でも思い出すのは、「松本清張」のものである。
悲しい社会の現実が書かれていた。

その頃新竜土町(今の六本木の自宅)を離れて弟の達とともに天現寺にある霞友学寮に移り住んだ。
「霞友学寮」というのは外務省が運営する施設で、外交官の子供達の宿舎になっていた。子供達といっても小学生から大学生までいて、その子供たちの親は外国に行っていて、東京に残されたものを預かっていた。鉄筋3階建てで一人一人部屋が割り当てられ、六畳一間に備え付けのベットと勉強机があった。
今でも親しくしている堀紘一氏は同じ階にいた。
彼は中学1年、私が大学1年の時からの付き合いである。天現寺から四谷の駿台まで通うのは都電(路面電車)であった。天現寺から四谷三丁目、そこで乗り換えて四谷駅まで行き、四谷の裏通りにある校舎に行く毎日であった。
姉の綏子は私達弟のことをサポートしてくれていた。
弟の達は麻布高校、浪人の私は予備校。浪人というのは明日が判らないという大変不安な立場であった。 暖房はあったが、冷房はなかった。姉の綏子は軽井沢にバラック小屋を夏の期間だけ借りてくれて、勉強のための涼しい場所を用意してくれた。
やり繰りが大変だったのではないかと今でも姉に感謝している。

「霞友学寮」での生活は楽しかった。三食用意されていて、食堂で皆で食べた。
大きな風呂場もあって、当時としてはかなり贅沢な生活ではなかったのではないか。
紘一君とはよくイタズラをした。
ある時寮の看板を外してきてその裏にまったく同じ字で「霞友学寮」と墨でしたため、馨。紘一と署名して知らん顔して元の所に掛けておいた。
このイタズラは台風が来て、看板が吹き飛ばされた時、見つかってしまった。
寮の支配人はこれを見付け、犯人はすぐに判明し、外務省に通告された。私は外務省に呼び出され、担当の課長から優しく諭された。
今考えると申し訳ない事をしたと思っている。

私の毎日は予備校通い。その頃FMの試験放送が始まり、私は月賦でラジオを1台買った。あまりに良い音だったので東海大のやっていた試験放送は随分聴いた。
予備校に集まった浪人達は皆同じ境遇にあったためか皆すぐに仲良しになった。昼休みソフトボールをやって遊んでいた。
今「迎賓館」は立派になっているが、その当時は前の所は更地でソフトボールをやるのに絶好の場所であった。
駿台の授業はおもしろく、判り易く、名物先生もたくさんおられ私は熱心に勉強をした。
一学期が終わった時、成績順にクラスの組み替えが行われ、私は125番で一番できるクラスに昇進した。
予備校は成績は壁に貼り出されるなど、競争を正面に出した良い予備校だったと思う。

学業はぐんぐん良くなった。
秋の9月からは駿台に通うことはほとんど止め、寮で一人で勉強していた。だいたい1日16時間位は机に向かっていた。
朝牛乳配達のびんの音が聞こえる頃就寝し、午後2時位まで眠り、また机に向かうという繰り返しの毎日だった。
そんなに長い時間勉強すると眠れなくなる。薬局にいって「ブロバリン」という眠り薬を手に入れ、毎日使っていた。
何しろ8科目もあったので、うまく自分の勉強スケジュールを組まなければならなかったが、物理はやめて化学を選ぶことにした。模擬試験でも良い成績をとれるようになり、希望が少し見えて来たと思っていた。
理系に行きたかったが、自信がなかったので文系にすることにした。今でもこのことは後悔している。

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