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経歴

2016年1月28日

私の歩んで来た道(25)

大学1年生の時の学生運動の対象は警職法であった。
警官の職務を行う時のルールを改正しようとした政府に対して、戦前の暗い時代に戻る、オイ・コラ警察の復活だ、という主張である。
大学の構内でも文字通りミカン箱の上に立って、リーダー達が演説をし、そこいら中に手書きのポスターが張られていた。私は中身もよく判らないし、人がやるから自分もやるという考えは全くなかった。

1年生の秋以降は本郷のグランドで過ごす時間が多く、政治にはあまり関心がなかった。
その年末キャプテンの片桐さんから、君が、君の年次のマネジャーを務めてくれと言われ、プレーを断念するのは嫌だったが、誰も引き受けないのであればしょうがないなと思い引き受けた。マネジャーは各年次毎に一人必要だった。従って私を入れると四人のマネジャーがいたわけである。仕事は何かといえば、あらゆる雑用である。
最も大事なのは野球部運営の資金の確保である。資金源は大学の予算(わずかであった。)野球部OBの拠出、神宮の切符売り上げの分配金であった。
その中で合宿所の運営、道具の確保、他の五大学との連携、チームのスケジュール管理等々多忙をきわめた。30人以上の人達に三食用意することは、賄としてとても大変だった。
私も天現寺を引き払って、本郷に移った。戦前の木造2階建てで、もう建物としての限界が来ていた。少し傾いていたし、害虫もはびこっていた。

2年になった時、1年生が入って来た。その中に駿台予備校で仲良しであった上原隆君がいて、1年下の彼がマネジャーになった。
大学では安保改定に反対というのが運動のターゲット。かなりの盛り上がりをみせ、全学連という全国組織もできた。
ある時駒場の授業でクラス全体でデモに参加するという。行かないと言ったのは私を含めてたったの3人。担任の平井教授は自分の部屋に来いと言われる。伺うとコーヒーを御馳走して下さった。生まれて初めてインスタントコーヒーというものがあるのを知った。
国会の周辺では大きなデモが連日行われていた。ほとんどの学生が安保のことはよく知らないで、流れにのって反対運動をしていたのではないかと思う。

安保反対というより、岸首相に対する思いが一般にあったのではないか。
特に昭和16年戦争を始めることを決めた時、岸首相は一大臣として署名している。その責任はどうしたという反岸感情が流れていたものと思う。
反対運動が高まりをみせるなか、私はノン・ポリであった。他のクラスメイトが集ろうという。場所は四谷の法蔵寺というお寺。そこの本堂で四人で麻雀をやった。ラジオを持ってきて国会周辺のデモの実況中継を聞きながら遊んでいた。
その時「人が死にました。」と言うアナウンサーの声。我々もこのまま遊び続けるのは不謹慎だということになり、あの6月15日の夜遅く事態の深刻さを感じた一瞬であった。

安保は自然成立し、岸首相は退陣した。
後は池田首相が生まれ、「所得倍増計画」を打ち出した。日本の高度経済成長の始まりである。
私は自分の希望通り法学部に進学した。実は大学1年生の時、家庭教師をやった。月8回行って3,500円。
しかしこれも野球部の生活は両立せず、辞めざるを得なかった。6ヶ月分の授業料4,500円を飲んでしまい後で母親に叱られた。
両親もマドリッドに居て、そこに私の実妹恭子も合流した。妹2人はマドリッド。残り3人は東京という形になった。

【注】法蔵寺は飯田君の実家。

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