トップページ > 経歴一覧 > 私の歩んで来た道(26)

経歴

2016年1月28日

私の歩んで来た道(26)

よく大学では資金集めの為のダンス・パーティが開かれていた。300円位のパーティ券を売って、部活動の資金集めに充てていたのである。
私も時々ダンパーに参加していた。ある時友人と一緒に行ったところ、その友人が他大学の女生徒に一目ぼれ、私に帰りにお茶を飲みに行こうと誘ってくれという。そんな風に女の子に声をかけるのは生まれて初めて。ためらっていると友人は早く頼むと言う。私も意を決して、「渋谷に行ってお茶を飲みませんか」と友人の希望を伝えると、しばらくためらっていたがOK.渋谷の宇田川町の喫茶店でお話に及んだ。
今は「合コン」という言葉になっているが、その当時は「合ハイ」と言った。合同ハイキングのことである。
お二人は青山学院大学の女性、それでは「合ハイ」をやろうという話がまとまった。
当日はこちらのクラスに声をかけ人を動員し、ハイキングはめでたく成功した。
この「合ハイ」の結果カップルも生まれ、良かったなと思っている。

川口順子参議院議員がよく私の選挙の演説会に応援に来て下さった。
演説の中身は「与謝野さんと初めてあったのは、大学でのダンス・パーティです。生まれて初めてダンスを踊ったのは与謝野さんです。」演説を聞きに来て下さっている人は、そんな昔話を聞いて皆拍手をして下さった。
他の大学がやるダンス・パーティにも友人と、のこのこ出かけて行ったこともある。
野球部時代の楽しみはあまりなかった。小遣いも限られていたから、一杯飲みに行くのは、「トリス・バー」というもので「トリスT杯」が一杯30円〜40円で飲めた時代である。千円札1枚持って駒込のトリスバー、サントリーバーに出没した。

そのころのもう一つの楽しみはパチンコである。
1年上の部員で天才的にパチンコが上手い人がいて、その先輩に連れられて稼ぎに行った。その先輩は連日通っていたから、この台は出る出ないをよく知っていて、「与謝野はこの台でやれ」と教えてくれる。首尾よく稼いだ時はそれを「カミソリ」に換え、近所の交換所で現金にしていた。
「歌声喫茶」とか「クラッシックの音楽喫茶」もあった。
社交ダンスが踊れるダンスホールも新宿・上野・新橋等にあって、有名なフルバンドが演奏をしていた。
TVも相当普及しており、音楽は渡辺プロの全盛時代であった。またその頃もうすでに有名女優だった、八千草薫さんとか若尾文子さんが未だにご健在であることには驚かされる。
お金のない学生は10円玉を数えながら飲んで歩いていたのである。

野球部2年生が終わった時、岡村名投手は卒業、後を継いだのは大洋ホエールズにその後に入団した新治伸治君が時々勝利を上げてくれた。
最近は100連敗とか報道されるが、岡村・新治と続いた時代は毎シーズン勝ち星をあげていた。一勝するとまるで優勝したようなお祝い気分になれた。
大学4年生になった時、東大は六大学リーグの当番校になり、リーグ運営に責任を持つことになった。
その時の東大のマネジャーの体制は、4年与謝野、3年上原、2年平野と強力なメンバーが揃っていた。
上原君は社会に出てから、日本長期信用銀行の副頭取となり、平野君は川崎製鐵の幹部になり子会社の運営等を任されていた。

経歴一覧へ