トップページ > 経歴一覧 > 私の歩んで来た道(29)

経歴

2016年3月10日

私の歩んで来た道(29)

昭和38年、私は何とか東大を卒業した。ロクに勉強をしていなかったので、卒業の時はほとんど全科目をカバーしなければならなかった。
中曽根先生のご紹介で日本原子力発電(株)に入社することが決まっていた。昭和38年4月、社会人としてのスタートをきった。母は私が電力業界に入ることをひどく喜んでくれた。それは、母の父親が電力を一生の仕事にしていたからである。私の祖父にあたる虎次という人は、技術畑の人で、くそ真面目。母の話であると、船便で取り寄せた「ロンドン・タイムス」等をしっかり読んで、世界で起きていることも勉強していた人である。母の母、すなわち虎次の奥さんは母が6歳の時亡くなった。母は8人兄弟の末っ子で、そんなに早く母親を亡くすとどこかその影が残っているように私には思われた。祖父は遊びのできないくそ真面目の人であったので後妻をもらった。気に入らないので別れた。この繰り返しで母は3人の義母ができたのである。不思議なもので、「菅原通済」さんも継母がいたが、それが一時期母の継母であったので、「菅原」さんと母は我々2人は「ママ母兄弟」ねとよく笑って話をしていたと母は語っていた。
「ゆめ」を持って入った会社、初任給は17,400円であったから、今のレベルからいえば10分の1以下である。まだ日本は貧しかったのである。
どんな「ゆめ」を持っていたのか、それは資源のない日本で、将来の日本人の生活や経済を支えるものとして原子力を考えていたからである。この会社は会長が安川第五郎氏、社長が一本松珠璣氏であって。一本松社長はパイオニア精神で社業に取り組めとよく訓示されていた。

会社は大手町ビル(2階・3階)にあって、今の読売新聞社の隣である。私は地下鉄で広尾から大手町まで1回乗り換えで通勤した。
私が配属されたのは、技術部研究課というところであった。文系の私には縁のない職場で、周りの人がしゃべっていることが判らず困り果てていた。そこで少しは技術的なことを勉強しないといけないと思い、独学で原子炉の技術側面を勉強した。
この課の課長は今井隆吉という人で、東大で数学を学び、ハーバード大学で政治や外交の修士を持っていた。
私がこの世で出会った人の中で屈指の頭脳を持っていた人である。私の仕事は米国の「ウランの民有化法」という法律改正の中身、IAEAの保障措置、コピー機はまだなかったので、「青焼き」という手間のかかるコピーの役目。しかし入社1年目にして、重役にも、社長・副社長にもどうどうとお目にかかれたのは随分嬉しかった。

原電の導入したのは、英国のエルダ—ホール型と呼ばれる出力16万kwの原子炉であった。この原子炉の完成は間近で私は燃料の成型加工工場でのマニュアルの英文化などを命じられていた。いよいよ燃料は英国を出発して船で横浜に試験輸送されることになり、一連のプロセスを私が見ていた。試験輸送1箱が港に入る時、私は別の社員2人とで陸揚げ作業を見学に行き、ガイガ—カウンター等も担いで行った。
英国は天然ウランを使う炉で、中性子を減速する為にカーボン(鉛筆の芯と同じ)冷却には炭酸ガスを使っていた。後日、本物の燃料が東海村に到着した時には、全員が駆り出されて現場で燃料の目視検査を行った。私も原子炉の真上で燃料を運んだり、検査をしたりという仕事を与えられた。

政治には全く関心がなかったが、その頃読んだ京大の高坂先生の「海洋国日本の構想」という本や、吉田茂元首相の回顧録には随分学ぶところが多かった。それでも「エコノミスト」(毎日)と米国のタイム誌は欠かさず読んでいた。
中曽根事務所に小林克己さんという方がおられて、中曽根氏が今度勉強会を作る、若い人を集めて「Fireside」の会という呼び名にする。君も参加しないかと言われ、喜んで参加することにした。
年に3・4回行われるこの会は、私にとって「原子力」という小さな世界に閉じこもっていて、少し陰気な感じの生活に大きく窓を開いてくれたように思う。
その頃少し原電の将来にぼんやりと不安を感じ始めていた。それは何といっても、九電力の子会社のような存在で、独自に自社の路線を進められないということが判ったからである。
今井課長は天才的な才人で、彼の書く英語の論文は外国の雑誌によく掲載されていたし、原子力と核兵器の拡散問題、IAEAの役割等に非常に深い見識をもっておられた。役所の中でも外務省は今井さんの意見をとても大切にしていたと思う。

だんだんと会社の将来に不安を持って来た私は、母親に会社を辞めて別の仕事をやりたいがと申すと「一体何をやるのか」という詰問。
私は司法試験を受けるか、カレーライス屋でもやったらどうかと答えた。
母はそれは駄目だ、我慢して今の仕事を続けなさいと取り合ってくれなかった。自分の稼ぎは全部自分で使ってしまう毎月だったので、大きなことを母親に言える立場ではなかった。

経歴一覧へ