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経歴

2016年3月24日

私の歩んで来た道(31)

その頃我が家に異変がおきました。
弟達のことです。彼は東大に合格し、楽しい学生生活を送っているところでした。ある時彼は私に、今度女性2人に仏語を教えることになった。相手はなかなかの人だよと言っており、彼の大事な収入源になっていたはずです。年上相手に家庭教師というのはあまりみられないのですが、彼は得意の仏語を教えるのを楽しみにしていたようです。
弟と私は6畳の部屋にベットを2つ置いて暮らしていました。
ある時彼はこう言いました。「東大の戸田の寮に1週間程行って来るよ」。それから2週間程して会社から帰宅すると何かおかしい空気だ。妹の文子に「何があったんだ」と聞くと、妹は「達に子供が出来た、ママはカンカンだ」。私は弟には生活能力はないと思いましたので、「なんとか上手く納められないのか」と妹に問うと、妹は「馨兄さん、子供が出来たというのは子供が生まれたという事なんです。」それを聞いた私は少々驚いた。

弟と話をしてみると東大を中退して、どこかで働いて子供を育てると言い張る。私は弟に卒業証書を持っているのといないのとは、世の中に出てから随分違うのだ。気持ちは判るがここ2〜3年は親に頭を下げ、自分も働いて家族を養うしかないという事を誠実な考えとして伝えました。
母は自由な考えであるということを自負していたのですが、いざ自分の息子のことになると母親としての本能的な気持ちが出てしまったのではないかと思います。
その後弟は東大の法学部を卒業、日本輸出入銀行に入りました。

私の会社での仕事はだんだんおもしろくなってきました。
しかし電力会社の給料は安く、翻訳のアルバイトしていました。原稿用紙(200字)1枚で90円でした。けれども一晩で30枚位は出来たので、飲み代の足しになっていましたし、原子力産業会議の年鑑の英国の事情については、独自に書いていました。

私の仕事は大きく分けて2つありました。
1つは原子力保険の担当者で原賠法の事はよく勉強していましたので、福島での件はいい加減な法律解釈だと今でも思っています。
原子力発電所の保険は何種類かあります。1つは工事中の保険、1つは通常の火災保険、そして原子力損害賠償責任保険です。
原賠法の保険は一社では引き受けられません。そこで主だった損保会社が連合して保険プールというものを作り、そこで保険を引き受け、それをロンドンの再保険市場に出していました。私は保険料のことを色々研究し、イタリアのルチナという所にある同じ型の原子力発電所よりも、レートが高いことを密かに発見。プール相手に保険料の値下げ交渉をやり、結局10%ダウンを勝ち取りました。

その頃勉強したことと、今回の福島の件は随分違っていて、役人がこそこそ自分の責任逃れをしたということだと思います。
東電を悪く言う人がいますが、原子力は国策であり、国の基準と厳しい検査の上で建設されたもので、私としては国の能力に問題があったと考えています。一号炉は着実に動き始めましたが、発電コストは他の電源より高いものでした。二号炉は米国からBWRを買うことに決定。但し資金は無いので借金せざるを得ないのでした。日本のその頃の外貨準備は30億ドル位で、景気が良くなると外貨準備の天井にぶつかってしまう、今は考えられないような状況でした。(今、中国の外貨準備は3兆ドルを超えています)
今はお金の流れは日本から米国というパターンですが、その頃は日本は貧乏でした。例えば東名高速は世銀のお金で作ったのです。
そこで会社としては「ドル」を調達しなければならない。その頃日本は飛行機を買ったり、火力発電所を建設する時は米国のワシントン輸銀(Export and ImportBannk Of Washington)からお金を借りていました。
我が社は前例はないがワシントン輸銀に頼もうという方針をたてました。輸銀が90%GEのメーカーズクレディット10%ということで行くという事になり、穐山次長と私が担当になりました。何しろ金融の知識や、経理の知識はゼロでしたが、得意の一夜漬けで必死に勉強し、それを英語で表現しなければならなかったのです。まず、手始めに経理部総がかりで、円表示の資料をドル表示に直す作業、日本語の説明文を英訳するところから始めたのです。
資料が完成すると同時、私達2人は米国に向けて出発しました。行き先はまずニューヨーク。ここにある電力のコンサルタント会社と打ち合わせることになっており、現地での世話は原電のエージントの三井物産にお願いすることになっていました。

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