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経歴

2016年4月7日

私の歩んで来た道(34)

今回は父親のことを少し書いておきたい。
母が私に言ったことだが、親が偉いと子供は大変だ。パパは偉大な両親を持って、そのプレッシャーは相当だったと思う。母は父親が少し控え目な人であることを不満に思っていただろうが、私自身この年齢になって父親を思い出すと、我々には決して言わなかった苦労があったに違いないと思う。
写真で見ても特上の美男子、一高、東大、外交官という一見エリートコースを歩んでいたけれど、父にはもっと向いていた職業があったのではないかと思う。

よく家族に話していたのは「浅草オペラ」の話で、自分で「岩にもたれたもの凄い人は服はビロード、ひらっとなびく。あゆむ額は帽子に見えぬが・・・」などと何度も歌ってくれた。
一度福田赳夫総理から、君のお父さんと僕は一高の同級生、大学に行ってからはラグビーをやっておられたよと昔話をされたことがある。そう言えば父からラグビーで鼻が曲がってしまい鉄の棒を入れて真っ直ぐにお医者さんに治してもらった事があるという話を聞いた。

一生公務員あるいは公務員に準ずる職に就けたのは本人の人徳だと思う。
但しお酒の飲み方は尋常ではなく、父の考えはビールは清涼飲料水。飲むというのはウイスキーのびん1本のことが基準であったのだろう。賭け事も好きで、麻雀以外は何にでも手を出していた。
父の最初の任地はパリで、そこで先輩の付合っていた女性を先輩の帰国後引き受けたと母が笑っていた。その為作った借金は母晶子が工面したのであるから、私からみれば随分だらしない話だと思う。
父が亡くなった時は借金があったが、母や子供達で何とか穴埋めができた。文才は豊かで「ずいひつ」は好評だったように思う。
父と男の子はそうベタベタした付き合いはない。どこの家庭でもそういう傾向があるのではないか、そして父が亡くなり子供が社会人になって初めて子供は父親を理解できるのではないかと思う。
晩年の父親は、馨、セーターを着ないと風邪をひくよと言われる等やさしい父親になっていた。

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