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経歴

2016年4月21日

私の歩んで来た道(36)

私の母道子(本名 みち)は女子学院で学んだ。大正4年生まれであり、6才の時母親が亡くなった。少し可哀想な人だったのではないかと思う。その女子学院で母の担任の先生は黒沢さんという方で、国文学の先生であった。黒沢先生は私の母を、本当に自分の子供の様に可愛がって下さり、麻布の家にもよく来て下さった。
私に対して『馨君、学校で運動会があるので見にいらっしゃい』などと言われる、私にとっても懐かしい方である。この方のご長男が後に日本興業銀行の黒沢頭取である。

昭和40年代のはじめ、母に対して本を書くような依頼があり、それは主婦の友社であった。
内容は嫁として仕えた義母与謝野晶子についてであって、編集者として出版元から母のもとに来て、執筆を手伝っていたのが石川とも子(私の女房)である。石川家は主婦の雑誌の先駆けとして大いに時流に乗り、戦前は女性雑誌のリーダー格であったらしい。

本の名前は「どっきり花嫁」という本で、比較的よく売れたようであり、テレビでも演劇化されたのです。私の母はその編集者の石川とも子さんをすごく仕事を通じて気に入って、嫁をもらうならあの人にしなさいと言う。私も29才になったので、そろそろ身を固めなければならないと思い、母がすすめることに素直に応じて結婚することにしたのである。

その頃、中曽根事務所の小林秘書が訪ねて来られて、自分は東京を離れ中曽根氏の群馬三区の方にまわらなければならないので、後の秘書に君になってくれたら自分としては良いと思うが、どうだろうと言われる。
私はお誘いは名誉なことであるけれども、会社で責任ある仕事をしているので、とお断りした。それでも攻勢は緩まず、ある日夕食を共にしようとおっしゃる。行ってみると読売新聞の渡邊恒雄記者も来られていて、是非数年間秘書をやって、その後議員になっていくという人生も考えるに値すると言われる。
その後何回かのやりとりがあったが、とうとう根負けして会社を辞めて中曽根事務所に入ることにした。
会社の上司に相談すると「お前はこの会社の社長になれるのだから、政治の世界などにいくのではない」と言われる。
佐々木良作先生に相談すると「君、それはやめたまえ、自分は全エネルギーの90%以上は選挙区にとられていて、残りの10%で良い仕事をしようと思っているが、なかなかそういかない。サラリーマンをしている方がずっと良い仕事が出来る」と言われる。私も相当迷ったが決断して未知の世界に入ることにした。

私は政治家を志していたわけではなく、運命がそのような方向に動いていったのである。
結婚、退職、新職場といっぺんにやろうというのであるから無茶な話でもあった。
仲人は石田博英元労相、主賓は中曽根、佐々木両先生であり、帝国ホテルでこじんまりした披露宴を行った。中曽根先生は新婦のことを「サザエさんのような人」と言って皆の笑いをとっておられた。
新婚旅行はグアム、サイパンに行った。まだ日本人旅行客の少ない時代、随分贅沢をしていると思っていた。
新居は神宮外苑の近くの公団住宅であった。これはオリンピックの記者の宿舎用に建てられたものを、抽選で当たって購入したものであるが、20年近くかかってローンを返済した。

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