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経歴

2016年4月21日

私の歩んで来た道(37)

会社員の仕事は都合5年に及んだが、若い社員に拘らず会社の重要な仕事をさせてもらい、ものすごく勉強になった。
中曽根先生の事務所には昭和43年の春から46年の春まで3年間務めさせて頂いた。
今考えるとそんなに良い秘書だったとはとても思えない。中曽根先生、奥様に随分ご迷惑をおかけしたと思い、思い出すと赤面することばかりである。

昭和43年頃の中曽根先生は、これからという時であった。
河野一郎氏が死去し、河野派は森派と中曽根派に別れたばかりであり、中曽根派は「新政同志会」という名の下に25名弱が集まっていたが、いわば集団指導制のような形をとっていた。
佐藤政権下で反主流であり、財界もそうたいした応援もしてくれないし、閣僚をはじめとしたポストにも恵まれていなかった。佐藤派と旧池田派の全盛時代であり、小さな生まれたばかりのグループには冷たかった。そういう中で中曽根先生ご自身は派の資金を集めたり、人の応援に地方に出かけたり忙しい毎日であった。

中曽根事務所は議員会館に一ヶ所、ここは極めて優秀で中曽根氏を支えることが自分の天命であると考えていた上和田義彦氏がいて、全ての統括をやっておられた。東京には派閥の事務所が砂防会館の2階にあり、中曽根先生の個人事務所は砂防の4階にあった。(3階には田中角栄氏の事務所があったが、文字通りまったく交流はなかった)
私はその事務所で先生の日程を作ったり、また色々の雑用をしていた。今考えると満足のゆく仕事ぶりでなかったと反省することが沢山ある。若いくせに生意気であったし、この世界の立ち振る舞いもよく判っていなかったと思う。

自民党の総裁選があり、佐藤栄作総理が砂防の4階まで訪ねて来られたことがあり、新聞記者から今日はどんなことでしたかと聞かれると、栄作氏は壁に飾ってあった「無心」という色紙を指さして、これだよと答えておられた。
その後、中曽根先生は佐藤内閣の運輸大臣に任命され、何となく派も一息ついたような雰囲気になった。その後総務会長をやり、また防衛庁長官も務めて、ここから中曽根氏の上昇が始まるのであった。それは人事の佐藤といわれた総理が中曽根先生を高く評価していたからだと思う。派の中には入閣待ちの人もいて、先生は随分苦労されていたのだと思う。
私は時々、運転手の役もやっていた。ある時五日市の古い農家にお供した際、「与謝野君、何故こんな所に古い農家を買ったか判るかい。要は「To Kill The Time」だよと言われた。河野一郎氏の存命中はどうやら睨まれていたので、暇つぶしに小さな畑を耕しておられたのだ。

私の秘書をしていた時の最大の事件は三島由紀夫氏の割腹自殺であり、中曽根氏は責任を感じて防衛庁長官を辞したいと申し出たがそれは受け入れられなかった。
私はいつも三島氏の送り迎えなどを命ぜられていて、とにかく第一報が入った時、自宅に電話したが通じなかった。その数ケ月前、派閥の研修会で講演して下さることになり、パレスホテルまでお迎えにあがったことがある。後で記録をみると、その日は三島氏は同志と共に、切腹の作法を研究していたらしい。
私の両親も三島氏とは親しかったし親近感を持っていた。何故あのようなことになったか、私も三島氏の書いた政治ものの文章は全部読んだが、あのイメージはとてもわいてこない。
その頃、読売の渡邊恒雄氏がワシントン支局に行くことになった。よく手紙を中曽根氏宛に下さるのだが、字が特殊でなかなか読めない。どういうわけかあの難しい字を私は読めた方であったので、ワシントンから手紙がくると先生の机の前で朗読を命じられた。

中曽根氏は極めて質素な人である。必要以上の贅沢を嫌う。
ある時こんなことがあった。先生は私に「最近はゴルフ場の坂を上がるのがしんどくて大変だ。」そこで私は平担なゴルフ場を見付けてきて、「わずかなお金を追加すれば、平らなゴルフ場に行くことができます」と申し上げたが、先生は政治家は贅沢はいかんと言われそのままになった。
ある時東京二区(中央区、台東区、文京区)の四宮久吉さんが亡くなられたので、そこで選挙をやったらどうかと勧めて下さったが、自分の生まれた場所、小学校、中学校に行った場所がよいと思ったし、また政治資金もないので、このご親切は私には無理だと思った。

3年務めて中曽根事務所を辞めることになった。
そして予定通り東京一区で選挙をやることに決意を固めた。資金はない。先生は何人か紹介して下さった。そして自分で行ってよくお願いしなさいと言われる。
幸運なことに原電にいた萩原君が手伝ってくれると言う。私はこの萩原君(家の都合で途中でやめたが)の存在なしにはスタートを切れなかった。
32才の春から運動をはじめたが、本当に右も左もわからない中でのスタートであった。
事務所を借りる資金もなかったので、四谷にある、ある団体の室の片隅に机を置いて運動をスタートした。

(追記)
昭和45年5月27日(中曽根氏の誕生日)、中曽根氏と若手の経営者20名位が三島氏の話をうかがった。
要点は次の通りであったと思う。

  1. 中曽根さんは政治家、どんなに善意であっても結果を伴わないと駄目だ。
    例えば、飢えた民が沢山いる時にその飢えを解決する。結果を出すのが政治である。
  2. 私三島は政治運動をやっているのではない。精神の原則で行動している。
    例えば、私が人に影響を与えた場合、有効かどうかは別にして立ち上がらなければならない。行為する責任がある。
  3. すなわち、結果責任と行為責任は違っているのだ。

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