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経歴

2016年4月28日

私の歩んで来た道(38)

大正5年(1916年)、石川武美・かつ夫婦は『主婦の友社』を創業した。
武美・かつ2人は私の家内とも子の祖父、祖母である。
この出版は時代の要請に応えたものであり、仕事は極めて順調で婦人雑誌の先駆けであった。

武美氏は幅広い社会との繋がりがあり、例えば『国民新聞』等を応援しており、徳富蘇峰氏等とも深い交流があった。かつさんは夫を助け、また2人の娘をもうけた。長女の恵美子が私の家内の母である。私が結婚した頃にも、祖母かつさんはお元気でおられた。娘恵美子は九州大学の井上数雄と結婚した。井上氏は九大の医学部で放射線の研究をしており、ドイツなどにも留学していた。長崎に原爆が投下された時、現地調査を行った一人であり、根っからの学者であった。
ところが武美氏は戦争協力者と見なされ、公職追放となり、静岡県の清水市に引きこもることになった。後継者のいない主婦の友社は、学者の井上氏を学問の世界から出版の世界へと引きずり込むことになり、姓も井上から石川に変えることになった。

数雄氏は真面目で、慎重で、酒も飲まず、賭け事もせず、私が初めてお目にかかった時、数雄氏の楽しみは野球の巨人戦、プロレス、プロボクシングであった。出社するまで5分しかかからない所に住んでおり、社業以外には一切社会との繋がりはなかった人である。
例えば、ゴルフは「女性に荷物を担がせるから」駄目だと言っていた。ある時私がゴルフに行くと申し上げると自分も連れて行けと言われる。数雄氏は生まれて初めてゴルフをやってみた。
それ以降はもう夢中でゴルフに打ち込むようになり、氏の晩年はゴルフという楽しみができた。

母恵美子さんは女子学院出身で、私の母道子、妻のとも子と同窓であった。
子供ができたことが判ると、女房は実家に戻りたいということになって、私も居候の身となった。長男優、次男稔は昭和44年の1月と12月に生まれた。それからはずっと石川家の一角で御世話になった。
恵美子さんはとても優しい方で、五人の子供をもうけ、たくさんの孫に囲まれた。幸せであったと思う。

但し石川家は政治の世界には全く縁が無く、むしろ政治の世界はあまり好きでないといったほうが正確であろう。それでも数雄氏は社のお金ではなく、自分の貯金の中から私に援助をして下さったし、また徳間書店の徳間康快氏をご紹介下さり、徳間氏は緒方竹虎氏の秘書もしたことがある政治の通であった。
数雄氏は私が原子力のことをかなり知っていたので、しばしば原子力や放射線の話の御相手をした。2人の子供は社会人となり、夫々の会社で元気よく働いている。

武美氏が引退した清水の家はかつさんが住んでおり、私も家族一同とよく遊びに行ったが、庭はよく整備され、果物や野菜は自家製、また桜並木の美しさは並大抵のものではなかった。遊びに行くと、清水港の美味しい魚類を御馳走して下さった。
主婦の友社は数雄氏が亡くなった後は、男の子達が経営を引き継いだ。私の妻は石川武美祈念図書館のお手伝いをしている。
私が立候補した時、石川家はあげて私を応援して下さり、これはどのように感謝したらよいかわからないくらいである。
数雄氏はとても面白い人で、御茶ノ水の家の庭で農作物を作ったり、ハチを育て、蜂蜜をとったり、健全この上ない人であった。ある時水が無くなると困るということになって、庭に井戸を掘った。御茶ノ水のあたりは、本来は名前の通り良い水が出る所の筈であったが、200mも掘ってようやく水脈にあたった。飼っていたハチは多分上野の森や皇居に行って「蜜」を集めていたのではないかと思う。
石川家の一角には芝があり、バラが咲き、こんな贅沢な生活を送っていたのだ。
群馬の中曽根事務所から、東京で働きたい人がいる「黛」さんという方が来て下さって、家事・育児全般を手伝って下さった。今思うとずいぶん贅沢をしたものだと思う。

昭和46年中曽根事務所を辞めた私は、選挙の準備に着手した。しかし右も左も判らない中での準備。
名簿一つない、また千代田、港、新宿の隅々まで知らない自分、どこから手をつけたら良いか思案にくれた。資金も潤沢でもなく、萩原君が全力で集めてくれた「浄財」を頼りにスタートしたのである。
特に政策も作っていない。地元の人脈もない、酷いスタートであったと思う。そこで手はじめに地元の町会長を訪ねて歩くことにした。
衆議院議長を務められた中村梅吉先生が後援会の代表を務めて下さることになり、中曽根先生のお名前、中村梅吉先生のお名前は私の大きな後ろ盾になった。

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