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経歴

2016年5月6日

私の歩んで来た道(40)

昭和47年12月に落選した私は次の選挙を待ちわびていたのであるが、なかなかやってこなかった。
結局は4年間任期切れで初めて選挙となった。
長い長い4年間であったが、この時期をどうやって乗り切ったか十分細かいところまで思い出せない。
この4年の始まりは田中角栄内閣であったが、金権批判の高まりとともに退陣を余儀なくされ、予想外の三木武夫氏が総裁に選ばれ総理となった。

事務所の方は人員も整い、後援会の結成も順調に進んでいった。
まず、千代田区では川俣光勝都議の他、自民の支部長の大島義愛氏民間の財界の西郷之厚氏など、千代田の地域社会のリーダーの方々が私を応援して下さることとなった。また千代田区の町会長も多数私の選挙の応援に加わって下さる体制ができた。
区議会では、櫻井潔氏という方が第1回目の選挙から支持して下さったが、この方のお陰で区議会の中の支持も強くなっていった。と同時に私の秘書をしていた吉成五郎氏も区議に当選していたのも心強かった。

新宿では、牛込地区と柏木地区に支持者が増えていった。田中栄一陣営は清水長雄都議がその中心であったが、清水氏が亡くなり、その陣営の方々も私を応援して下さることになった。その一番良い例が、新井康文区議であり、その影響は極めて強かった。この時期週1回は自民党区議の控室に顔を出して、皆と非常に仲が良くなった。山本区長も密かに私の応援団であった。
港区は相変わらず苦しい状況であったが、各地で私の支援グループが出来上がって来た。

1回落選したおかげで、三区で行われる町会や団体の新年会にもお呼びが掛かるようになり、1月と2月初旬は新年会回りに追われていた。
田中内閣が退陣し、三木内閣ができた時我が師、中曽根先生が幹事長に就任されたことも心強かった。
コマ劇場を借り切って、大会をやったり、各地でミニ集会も開けるようになり、中曽根先生にしばしば足を運んで戴いたし、羽田孜先生、渡辺美智雄先生には文字通り、数えきれない程ご足労を戴いた。宇野宗佑先生もよく来て下さった。
資金も月の経費をギリギリ賄えるところまで充実したが、注意してお金を使わなければならなかったけれど。好意ある支援者は引き続き資金を出して下さった。
(今の新人は政治資金規正法でがんじがらめになっていて、余程のお金持ちでないと選挙に出られなくなっているのは、どうかと思う)

昭和51年春、ロッキード事件が起きた。
7月には田中角栄氏が逮捕され起訴されるという未曽有の事件が起き、自民党からは有志が飛び出し、新自由クラブが結成された。三木氏に対する自民の主流の怒りは凄まじく、「三木降ろし」が始まったが、三木氏は粘りに粘り、任期切れの選挙となった。

この4年間で特に思い出すのは、学生運動の高まりであり、私の住んでいた神田駿河台の周辺も学生によって封鎖される始末であった。その中で昭和49年三菱重工爆破事件が起こり、また各地で爆弾テロが起きた。中曽根先生が通産大臣に就任され、ヨーロッパ・中近東に行かれた時、大変ご迷惑だったと思ったのであるが無理矢理ついて回った。途中で別れてエジプトのカイロに立ち寄って懐かしのカイロの街を眺めたのは一生の思い出である。

選挙では毎日毎日歩く日々が続いた。人は何となく当選したと思われる方が多いが、票は一つずつしか取れない。風にのって選挙はできないのである。自民党には逆風が吹き始めており、候補者になろうとしている人間にとっては不安の毎日であった。
ある時秘書(名取君)と2人で南青山地区をポスター張りをしていた時、ポケベルが鳴った。事務所に連絡すると田中栄一氏が引退するらしいとの情報。人は田中氏と接触することを勧めて下さった方もおられたが、私は自分の道をいくことにした。

田中栄一氏の後は港区の都議大塚雄司氏で、この方は私の終世のライバルとなった。
昭和51年12月に選挙が行われた。その前に徳間康快氏に呼ばれ、「君は十分の資金はあるのか」と問われ、実情をお話したところ「自分が保証人になるから銀行から取り敢えず、資金を借りることにしたらどうか」と言われる。その通りにしたが、この借金の始末には10年位かかった。特に石川家の方にご寄付戴いて始末ができた。
選挙の結果はロッキード批判でテレビで名を上げた麻生良方氏がトップで、2位が私、3位は大塚氏がすべり込んだ。
その時私のつぶやいた言葉を今でも思い出す。大塚氏という強い人が当選したわけであるから、「またこれからも、毎日毎日が地元での対選挙の活動だな」これが率直な感想であった。
当選して皆喜んで下さったが、私の父の兄、光氏(鉄幹・晶子の長男)は私の手を握りしめ『馨君、君は父の夢を叶えてくれて有り難う』と感激した言葉を私に下さった。
鉄幹は若い頃から政治の世界に憧れを持っていたが、チャンスに恵まれなかったし、また京都で立候補した時は「惨敗」している。選挙活動する晶子という写真が存在する。

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