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経歴

2016年6月2日

私の歩んで来た道(42)

張り切って政治家になったつもり、それでも驕りが出てくる。
気がつけば良いが急に偉くなった気分であった。他の議員が役人を怒鳴りつけたり、目を背けたくなるようなケースを幾つも出くわした。
一年生議員は議場の一番前に座る。その頃の自分をみると、縦のストライプの入った背広を着ている。
三木退陣の後の政権発足は、福田陣営と大平陣営の話し合いで行われ、福田さんが総裁、大平氏が幹事長になった。我々には何も証拠は無いが、二年一期ということで大平さんは福田さんと約束してあったらしい。2年経ってもまだ福田さんは続けたいという、大平さんは譲らない、ということで自民党の規約に基づく党員選挙、その後国会議員による投票ということになっていた。

私のその時の立場は中曽根派ライバル大塚氏は福田派。
実は私は、福田氏は地元新宿に自ら大塚氏応援に来るし、このままだと自分がどんどん不利になる。自分は福田さんは推したくないと思っていた。しかし党員投票で福田さんは負け、大平内閣ができた。
そのうち選挙の時期が近づいた。準備に余念がなかった。万全の体制で選挙に臨んだ。
私は一般消費税を唱えた大平首相には賛成で、選挙ではその事を否定しなかった。
負けた原因は他にも色々あるが、選挙に負けると本当に痛い。後始末をやった後は自宅の2階の日本間に布団を敷いて一週間程寝ていた。起きられない程のショックを受けていた。

私は選挙の翌日、鳩山邦夫氏(同落選)を訪ねた。二人とも準備は万全であったのにこんな負け方をしたのは悔しくてたまらぬ。もう自分の人生のコースを変えても良い位の気持であった。鳩山さんの敗因もよく判らない。お袋からは慰めの電話はあったが、親父からは全く何もないと言われる。二人ともどこか、これでもう辞めたいな、という気持ちがあった。あれだけの新年会・忘年会を回り、町会・団体その他神社冠婚葬祭を回り、自分の時間などほとんどない生活を送ってきたのにな。という深い感慨があった。
母が私のところに来てつぶやいた言葉は「急いでものを決めてはいけないよ」「何をこれからやってもいいのではないか」私は「もう辞めたい」という一時の激情はだんだんと薄らいできたと同時に地元の人が名簿を持って来て下さった方も居られるし、もう一度頑張れと言って下さる。今度、町を回る時は一緒に私が付いていってあげると言われる方も居られた。落ちると人々は温かい。

私達昭和51年当選組は20代の議員もいた。例えば中村喜四郎君、鳩山邦夫君などである。長老的存在は後藤田正晴氏である。
その頃党内は派閥全盛時代で、田中派、大平派、福田派が3大派閥であり、この人達の相談で何もかも決まってしまうような雰囲気があった。その中で中曽根先生の戦略は的確で一人一人議員をご自身で増やしていく道を取っておられた。例えば私の例もそうであったし、全国でも無派閥で有望な人のことは応援されていた。
数が増えるとともに力はついてくるし、色々大臣ポストも回ってくるようになる。後に中曽根政権ができたのは、先生自身の身を削るような努力で議員を増やしていったことによる。
選挙の開票日、秘書が私に「どうも届かないようです。」と報告。私は思わず「鳩山、島村はどうなった」と聞くと、「やはり駄目でした。」私の内心は仲間がいて良かった。これからお互いに励ましあえると考えた。一年生の時の失敗は「カラオケ」が大好きになったこと、自民党ルール(麻雀)というものにはまってしまったことである。
但し他の議員と全く違うのは、例えば銀座などには一切出掛けなかったこと。競馬は父のことを見ていたので一切手を出さなかった。選挙に負けた後、事務所の金庫には秘書の給料一ケ月分しか残っていなかった。
自分では病気をする、母はガンだ、選挙には負ける、私はあまり迷信は信じない方だが、「男の厄年」であったと自分に言い聞かせていた。

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