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経歴

2016年6月16日

私の歩んで来た道(43)

42歳で落選。自分では40代の男として一番活力のある、仕事のできる時期に浪人、これは何とも言えずむなしい日々であり、政治はもう辞めたいという気持ちが何度も湧いてきた。
その当時中央政界では福田・大平氏の喧嘩は酷く、首班指名の本会議が開けない状況であった。要は選挙に良い成績を出せなかったのであるから、大平総裁は交代すべきである。いやそんな事はない、ある程度の成績は出せたではないか、という喧嘩である。権力闘争が1ヶ月以上続いていた。野にある自分としては冷めた目で見ていて、別の世界で起きている出来事のように感じていた。

挫けそうな気持、もう政治の世界から身を引きたいという自分勝手な考えを、いやもっと頑張れと支えて下さったのは、地元の支援者である。
いくつか例を挙げると、新宿に吉野寿司というお店があるが、そこの親父さんがある日事務所を訪ねて来られて、これが自分の友人達の名簿であり、よくお願いするようにと言われる。今まで自分の選挙に前面に出た事のない方が、私の知らない間に応援して下さっていたという事は、もう私は後戻りはできないという気持ちを固めさせた。
これはほんの一例であって、地元の方は落選した人間には本当にあたたかい。これが実感であった。
毎日地元の方の先導で街を歩く、それも10軒、20軒ではなく、100軒を超える地元巡りであった。
同じような立場の鳩山邦夫氏とはこの時期しばしば励ましあっていたが、彼の日々の生活も同じようなものであった。

友人は有難い。中村喜四郎議員は「馨ちゃん、大丈夫だ。次の選挙は、地元の後援者は今まで以上に必死でやってくれるよ。」
「だから今は我慢して、誠実に地元歩きをしなければいけないよ」という趣旨であったように思う。
それでも後に熊本県知事になられた福島譲二議員からは時々麻雀の御誘いがあり、それはそれで楽しみであった。

衆議院の任期は4年であるが、戦後の平均をとると約3年で解散となり、選挙が行われてきた。
あと3年、あと3年、何とも長い時間、人生の一番油の乗りきった時代を、ただひたすら地元歩きに過ごしていた。選挙は負けると、あれがいけなかった、これがいけなかったという事になるが、一番いけないのは自分の自信過剰と結果に対する楽観であると思う。
候補者本人が楽観的な気持ちを持つと、言葉でいくら事務所の人間に「大変だぞ」と警告しても、候補者の楽観の気持ちは自然と秘書達に伝わり、またそれが地元を緩める原因となる。
落選の原因は選挙をなめたり、大丈夫だよという根拠なき見通しを持つ事が一番大きいように思う。これ以降はこの事を一番自分に言い聞かせた。

3年は待たなければならない、そう思いながら過ごすというのは、なかなか辛いものがあった。
それでも支援者は有難く、事務所を維持できるだけのお金は確保できていた。最初の私の事務所は四谷一丁目の伊藤ビルという所にあったが、そこは事情があって移らざるを得なくなった。四谷三丁目に三原堂ビルというものがあって、そこの7階に移ることになった。23坪の事務所。家賃・給料・電話代・ガソリン代・・・政治活動は一般的に考えられるより遥かにお金が掛かるものなのであると思う。

半年くらい経ったある時、新宿区議会議員の新井氏にお目にかかったら「与謝野さん良かったね、今朝の新聞に解散の文字が載っていましたよ。」と言われる。確かに一紙の政治面に大平対福田の喧嘩が再燃するかもしれぬという記事が載っていた。私はそんなことは絶対にあるまいと思っていた。そして国会の最終日、大平内閣不信任決議案が提出され、本会議で採決される事になった。事務所とは別の所のテレビで本会議の中継をみていた。雲行きが変であった。
福田派の議員が欠席戦術をとる事が判った。これでは不信任案は可決されてしまう。本会議が始まると同時に私は急ぎ四谷の事務所に戻った。テレビを見ていると不信任案は可決され、大平内閣は総辞職か衆院解散の道か、いずれかを憲法の規定上とらざるを得ないことになった。なんのためらいもなく大平首相は解散の道を選んだ。

選挙だ、私は天にも昇るような気持ちになった。3年待つところが6ヶ月で選挙のチャンスが来た。
四谷の事務所には帰宅したはずの秘書達が続々と姿を現し、全員がいつの間にか揃った。夜の9時頃であったと思う。そこに中曽根先生から直々に電話があった。「君、いよいよ選挙だ、今回は気を一段と引き締めてやりなさい」というお言葉であった。あとで伺うと落選していた人間全員に激励の電話をされたそうで、派閥の親分はあらゆることに気を使わなければならないと思った。
事務所では夜の10時頃から会議を開き、全員の持ち場をきちんと決め、特に私からは報道機関には状況などを説明することはやめるように、事務所全員が苦戦になるという認識を持つようによく話した。
選挙までは3週間弱。参議院の選挙が予定されていたので「ダブル選挙」になった。

ここで難問が出てきた。
新宿の都議田辺哲夫氏が出馬したいと言って金丸氏に働きかけ、その気になった事である。
与謝野・大塚の公認を外せという無理難題である。
時の幹事長の櫻内義雄先生は調整に苦労されたが、実績のない田辺氏のごり押しは排除された。
公認は大塚・与謝野の二名となった。選挙までの2週間ポスターを作ったり、選対会議を行ったり、資金も集めたり、忙しかった。
事務所は小さい所をわざわざ探した。地道な選挙をやろうと決意をしていた。

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