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経歴

2016年8月10日

私の歩んで来た道(50)

地元では相変わらず、大塚雄司氏との深刻な戦いが続いていた。
この頃私の事務所で把握していた新年会の数は、およそ1月5日から2月10日で1,050ヶ所。私はそのうち330ヶ所は自分で出席、残りは女房が50ヶ所位、そしてまたその残りは秘書がお祝儀袋を手に出席していた。
鳩山邦夫氏とよく話をしたが、1月すなわち新年会シーズンになるとお互い議員をやっているのが嫌になる。こんなことバカらしくて続けられないよねというのが、二人の意見の合致点であった。政策抜きの顔見世であった。
そういう会合は出たから票が大幅に増えるわけではないが、出席しなかった場合、どういう影響が出るのか、心配でこの種の会合は出続けるしかないというのが、二人の惰性の上に成り立った結論であった。1月の一ケ月間は出費も多くなる。時間はなくなる。お財布は痛む、むなしい一ヶ月であった。

私も1983年3回目の当選を果たした。
1980年代という10年間を振り返るとまだ自分でも解答が見つからないものが沢山ある。観念論として自主防衛・自主憲法をいうことは簡単であるが、中曽根先生の教えは険しいご自身の実際の体験から出て来たものである。ほとんど自らは触れる事はないのですが、弟様は軍のパイロットとして命を落としている。
不思議な事に私の存じ上げている先輩議員は皆反戦であった。
後藤田正晴氏、宮沢喜一氏、梶山静六氏、いずれも反戦平和だったと思う。梶山静六先生は私によくこう言われた。
『与謝野、君達若い世代は本当の戦争を知らない。戦争というものは実際どれ程悲惨なものかは、なかなか判ってもらえないだろうけど。』

1980年代はバブルが発生した時代である。
いつどのような事が原因であのバブルが発生したのか、土地が上がる、それにつれて株が上がる。そのようなスパイラル現象が始まったのであるが、有力な銀行、証券会社また日本銀行までが何が起きているのか判らないまま行動していたのであると思う。政治家はそんな事に対する理解力は全くなく、やれ「円高不況対策」を、やれ「政府が自ら需要を作りだす為に大型補正予算を組んで有効需要を増やせ」等々、各方面から色々な声が上がっていた。

中曽根内閣が発足したのは1982年。
党内からは異端児扱いを受けていた人間、財界からは非主流的人物とみなされる人間が首相の座に就いたのである。鈴木善幸内閣のもとで行政改革を担当させられていた。中曽根氏はある時笑って曰く、岸信介氏がこう言われるんだ。
『中曽根君、日本で行政改革が成功したのは3回しかない。一度目は大化の改新、二度目は明治維新、三度目は昭和20年の日本の敗戦時。だから注意深くやってくださいよ。』
岸信介氏というのは実際お目にかかるととても柔らかい、優しい感じのする方であった。
その頃行革と言えば赤字体質が慢性的になった国鉄をどうするか、これが与野党の対立、国鉄内の労組の対立等色々な紛争の構図を生んでいた。
国鉄改革の歴史を知るには、JR東海の葛西名誉会長の著作、党内の深刻な亀裂のことは三塚博先生の本が良い。当時現場に居た人であるから。

中曽根内閣がスタートするとともに、遊説局長を命ぜられた。
要するに総裁が遊説で地方遊説に出かける時、短時間の前座を務めるということ。そうでないと地元でマイクの奪い合いが起こる。
今あの当時を振り返ると政治家は(もしかして社会全体も)二つの事に全く気がついていなかったと思う。
一つは日本国内のバブルの発生。我々は土地価格の暴騰、株価の上昇はごく自然な経済状況だと考えていたのだ。それと同時にソ連の崩壊という社会主義政治体制の崩壊である。

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