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経歴

2016年8月18日

私の歩んで来た道(51)

議員も3年生になると少し偉くなった気分がするものである。
肩で風を切って歩くようなタイプではなかったが、頭が高いとか、生意気な奴という評判は相変わらず私に付きまとっていたと思う。
実は総理秘書官になられた小粥さん(大蔵省)、岩崎さん(通産省)とは、まさか二人とも秘書官になるなんてことはまるっきり想像もしないで、三人で月1回我が家の日本間で築地玉寿司の中野里さんを交えて、囲碁の会をやっていた。その中の重要メンバーが揃いもそろって総理秘書官になるとは。この会はその時点で人間関係だけを残して消えた。

私が2年生から3年生になる時の選挙は、田中角栄氏に対する実刑5年という厳しいものであり、その逆風に中曽根自民党はさらされた。楽な選挙をした人は一人も自民党の中にはおられなかったと思う。選挙終了の直後、総理官邸にご挨拶に伺った。ご自分のデスクから離れず半身で少し小さな声で『君もよく上がって来てくれたな』とポツリとおっしゃった。中曽根政権はピンチ。結局は新自由クラブの河野洋平氏に頭を下げて、「連立」政権が生まれることになった。

私自身だけのことを言えば念願の「政務次官」が目前であった。今は大臣、副大臣。政務官という役職が並んでおり、昔は大臣、政務次官と続いていた。政務次官というのは官職であり、大きな室、秘書官室、専用の自動車。いわば新米の重役のようなものであった。しかし実情はまったく違っていて、「省議」といういわば常務会のようなものには一切お呼びがかからない。しかし役所は何でも説明してくれるし、勉強をしようと思えばいくらでもその機会は作れた。ですからこの絶好の機会をうまく活用したかどうかは、あとの政治生活に差が出て来ると思う。

私は「通産政務次官」に任じられた。しかし心に残るような、あの仕事というものは、いくら考えても思い出せない。但し時間は随分とられる。大臣の「挨拶」を代読するのが、ほとんどの仕事であったように思う。私の政務次官秘書官は萱沼さんという方で、細かいところまでよく色々な事を教えて下さった。
私が属していた派閥は中曽根派であった。派閥解消の名のもとに看板のかけかえが行われ、従来「新政同志会」と呼ばれたグループは「政策科学研究所」と呼称が変わった。このグループの面倒を見て下さったのは、櫻内義雄先生であった。
戦後の混乱期衆議院が解散になり、いよいよ選挙に突入する時、すなわち本会議場で「ただいま解散の詔書が発せられました。」誰が音頭をとるわけでもなく、「バンザイ」「バンザイ」と議員が叫ぶ。別にこれはとり決めがあるわけではなく、自然にそのような儀式の手順になっている。(今もそうだ)。その万歳の夜、中曽根・櫻内の両名は有楽町で落ち合って、日劇ミュージック・ホールでしばしひと時美しいヌードダンスを楽しみ、ショウが終わるとお互いの健闘を祈って握手。そして選挙区へと急ぐことが慣例だったようである。今はもう無いのが残念である。日劇のヌードは品があったし、本当に綺麗であった。
私どもの派閥は当然の如く、櫻内義雄先生が会長になられた。派内は有能な士であふれており、渡辺美智雄先生、そしてそのライバルとして宇野宗佑先生がおられ。藤波孝夫先生は内閣官房に入っておられたので、若手の人事などは山崎拓先生が一手に引き受けられていた。また政策面では山中貞則、武藤嘉文、倉成正の諸先輩がおられた。

私は2年生の時なり損ねた政務次官をやったが、何か仕事をやろうとしても、なかなか現実は厳しく、空回りを続けていたと思う。
3年生のある日、宇野先生に呼ばれ、先生は「全国にある大事な歴史的地名、これがどんどん地名・地番の整理に伴ってなくなってしまっている。これを何とかしろ」とおっしゃる。これは法律改正が必要であり、自民党1党だけではとても無理な仕事だなと考え、とりあえずこういう事を主張しておられる市民団体の方にお目にかかって、その主張するところから聞いてみようと考えた。当時の日本は近代的な国の状況に対応できるよう、あらゆる分野で改革が進められていた。地名や地番の整理する必要に迫られていた。
例えば私の選挙区内でも、950番と951番が2キロ近く離れているというバカげた事が起きていて、郵便だけでなく物の配送が極めて不合理な事となっていた。地名の保存の運動している方々、非常に真面目なグループで、ゆっくりとそのご主張をゆっくりと理解した。
その話の主要な点は次の通りである。

  1. 地名や地番の整理が必要である事は認める。
  2. しかしその過程で地名のもっていた歴史的・文化的な側面が失われてしまう可能性がある。
  3. 日本中新しい地名は「富士見ケ丘」「みどりが丘」などなんのあじわいの無いものになってしまう。実際におこった事だが、軽井沢といえば長野県にあったのだが、観光資源開発のため、群馬県の浅間山のふもとも北軽井沢という名で売り出されていた。また一つの地名が有名になると、我も我もと同じ地名を使いたがる。(六本木・新宿がその例である。)
  4. 夏目漱石氏は新宿に住んでおられ、その由来で夏目坂という坂道もある。

市民団体が私に言われるのは、漱石の作品を読んでも場所がわからなくなってしまう。また牛込などには美しい地名があるのに、そんな大事なものがにみんな失われてしまう事になりかねない。いちいちごもっともなご主張であった。しかしこの種の問題は政治家だけで騒いでも進んでいかない。
これは「地方自治法」の改正が必要であり、自治省が事務的なサポートが必要であった。自治省はよく協力して下さった。なかでもO課長は地名保存の為本当に協力して下さった。
そこで第一段階で自民党の中に「議員連盟」を立ち上げ、そして次の段階ですべての政党に呼び掛けて「超党派の議員連盟」を結成した。こうなると人は集まる、物事は進むという良い回転が始まり法改正実現に向って物事は順調に進んでいった。宇野先生の知られざる功績であると思っている。
私は地方自治法の改正に3回関わった。どれもあまり人が見向きもしなかった代物である。

  1. 都議会議員の総定数を125〜128に増やすこと。
  2. 東京23区に夫々人事委員会を設置し公正な雇用環境が整備できるようにしたこと。
  3. そしてこの地名案件では「自民党歴史的地名保存議員連盟事務局長」として活動できたのは望外の幸せであった。

これは1984年の出来事。
中曽根内閣は11月1日に第2次としてスタートした。
私も通産政務次官の役職を与えられ、特に中小企業問題担当にも就任した。
誰も気がついていなかった事は、株・土地バブルが静かに進行しはじめていたことである。

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