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経歴

2016年8月25日

私の歩んで来た道(52)

1980年代日本の経済はバブルの渦に巻き込まれていた。誰一人気づいていなかった。日本銀行の金融政策はバブルにブレーキを掛けるどころか、その反対の方向に進んでいた。自民党は不況だ不況だと騒ぎ、後に政府自民党の予算は、TooBig, Toolateと言われる補正予算を組んだ。あんなに株が上がり、土地の価格が上昇しているのに、これはバブルだと考えていた人は、政府にも学界にも誰一人としていなかったように思う。但しインフレとは少し違っていて、他の物価は1%位しか動いていなかったのである。

東京は世界の金融センターになる。千代田区の土地を全部売ればカナダが買えるなどということが、大真面目に人の議論の対象になっていた。
私の選挙区は東京の中心(千代田区・港区・新宿区)であったから、いろいろな悲劇が生まれた。幾つかの例を御紹介しよう。
私の後援者は手堅い人で、千代田区でビルを何軒か保有し、地味な経営をしていた。その後経営は破綻するのであるが、倒産時の負債は5,500億円にもなっていた。とにかく銀行はどんどん貸し込んでいったのである。
また港区では、手堅くお米屋さんを経営していた私の友人は、金融機関がどんどん貸して、十軒以上あった米屋の敷地にビルを建てさせていた。決まり文句は「そんなにあくせく働かなくてもビルの賃料で一生ゆうゆう暮らせます。」というものであった。これには友人の米屋さんばかりでなく、地元の酒屋さんも、他の地味な商売をやっていた人の多くが、この銀行の甘い言葉にのせられていた。

私の中学時代のクラスメートで、三井住友銀行の頭取になった友人がいるが、彼がある日私にこう問いかけた。「与謝野、俺がどうやって頭取になれたか知っているか。」「実は俺は金を貸す時、相手が担保を持っているかどうかで判断しなかった。その経営者がまともな判断力を持っている人かどうかを観察した。その上でその事業が発展する余地があるかどうかを判断した。」「こういう考えでやると、貸す相手は限られてくる。」「自分が新橋の支店長をやっていた時、本店から呼び出されて、お前のところの貸し出しの伸びは極めてのろい。もっと積極的に貸し出しを増やせとさんざん説教をくらった事がある。」ことほどさように、銀行は貸し出す事に夢中になった1980年代であった。何故こんな心理状況が発生したのであろうか、これは今でも完全な答えが見いだせないでいる。

但しはっきりしているのは次の三点である。

  1. 日本の戦後の経済は十分な回復を見せ、投資先がどんどん無くなって来ていた事。
  2. お金はジャブジャブであった。国民の貯蓄によるもの。貿易収支によるもの。財政がふくらんだ。我々はこのような金余りが過剰流動性を呼ぶが、お金を預けられた金融機関もどこかに貸し出さないと、利息が稼げない、お客様に約束の利子を払えないという状況になっていた。
  3. 金融機関「悪人説」があるが、私はシェークスピアの「ベニスの商人」を読むまでもなく、一流の銀行だって街の金融であっても、その行動パターンは「金貸し」という意味ではまったく同じであると思う。

バブルの後始末の時代(おおよそ1995年から2005年)である10年間、バブルで失敗した企業・個人もいるが、まったくバブルの渦に巻き込まれないように行動していた人も沢山おられた。
なぜ色々な悪魔の手にのせられなかったのか、興味をもって友人・知人に訪ねて歩いた。答えは幾つかに分けられる。

  1. 彼は私の小・中・高の友人。父の会社の後を継いで、年商数百億円のメーカーをやっていた。彼はバブルの時代、社長の車を廃止するほど会社の堅実性にこだわっていた。ある時、経理担当の重役がいわゆる「財テク」をやっていることを発見した時は激怒し、その日のうちにその重役を辞めさせた。彼のこのような行動基準は一体何処からきたのかは、60年以上の親友である私にも判らない。そのメーカーのある地方都市の有名企業は全部倒産した。彼は例外として残った。
  2. バブルの時代が終わった頃、猛烈な勢いで設備投資を始めた家電流通業にいる友人。彼に何故こういう行動のパターンをとったのか尋ねてみた。「与謝野、金が金を生み出すというのは、変ではないか。私はバブルの時代その事を考えていた。であるからどんなに立派な話が持ち込まれても、本業と関係の無い話は全部検討もしないで断った。」多分この哲学は誰かに教わったものではなく、彼の人生航路の中で身に付けた行動哲学ではなかったと思う。
  3. 2000年に私が落選した時、私の事を激励して下さった経営者が二人いた。二人は私の事を地方の会社の寮に招待して下さった。お一人は世界の自動車メーカーに対して部品を供給している会社の社長、もう一人の方は、その地方で運送・倉庫・流通等目立たない経営であったが、企業の内容はこれほど堅実なところはないという会社の社長。私はお二人に率直にお尋ねした。
    「バブルに何故手を出されなかったのですか」お二人の答えは同じものであった。「我々の会社にも見かけ上、大変よい話が沢山持ち込まれました。私達は一件一件真面目に我々の経営能力、その分野の投資の採算性、各種のリスク等々、あらゆる観点から専門家を交えて検討しました。結論からいえば、リスクは非常に大きい。従って我々はいくら良い紹介者からであっても、どんな立派な銀行からの真面目な話でも、我々の会社が背負う事の出来ないものは全部お断りしました。結局は一件も手を出さなかったのです。」
  4. ある時私の友人は、自分の別荘で目を覚ました。「一体自分は何のために金儲けをやっているのだろう。株や為替の売買をやっていると心身共に休む日がない」自分は家族を含めて生活できるものは稼いだ。もう止めよう。彼は東京に帰ると彼の売買残高を整理はじめた。途端に大手証券会社の社長・副社長がとんできて、「社長、相場はこれからです。」「売るのは止めた方が良いと思います。」彼の保有残高は1,700億円に上っていた。中小企業の社長には気の遠くなるような金額。でも人は株を買うためにどんどんお金を貸してくれていた。これはバブルのはじける1989年のことである。株価はその年の暮にダウ平均38,000円天井を付け、未だにその後遺症は後をひいている。
  5. 堅実の見本のような会社があり、堅実な経営理念を貫いておられた方に同じ質問をした。答えは「私共の会社には家訓社訓があります。それは昭和4年の金融危機の時できたもので、『上げで儲けるな、下げで儲けろ』というもので、バブルのような上げでは儲けようとしないという意味です。」

それではバブルでどれ位の損失が発生したかといえば、ざっと計算する
・全部の損失 100兆円
・うち金融機関 85兆円
・政府の公的資金 15兆円

この数字を見ると、政府の一時的損失は15兆円程度で納まっているのに驚く。それではバブルはどの程度のスピードであったのか、私の身近で起きたことを御紹介しよう。
ある女性が港区内に家作を持っていた。5坪、10坪の貸地・貸家を数十軒である。その方曰く、父が残してくれたものなので、今でも大切にしているけれど、一ヶ月の地代・家賃のあがりは21万円、暑い日も寒い日も大変なんですよ。
私は土地を処分して利子で稼いだらどうですかというアドバイスをしました。最初の買主は4億円。2年後に実際に契約された時はなんと32億円になっていました。私の友人の魚屋さん16坪の土地を手放して7億円。今は7千万円でも全く買い手がつかない状況です。
自覚のないままバブルは進行する、そこに怖さがあります。
今また国民の自覚が全くないまま、国の財政危機が忍び寄って来ています。 

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