トップページ > 経歴一覧 > 私の歩んで来た道(53)

経歴

2016年9月1日

私の歩んで来た道(53)

その時代私がどんな思いで政治に取り組んでいたのか。鈴木善幸・中曽根康弘・竹下登の三首相が続いた時代である。私は自分の病気に運命のようなものを感じていて、総理・総裁を目指すなどということは一度も考えたことはなかった。一回だけは大臣をやって、自分を支えて下さった地元の皆様に御礼と感謝を申し上げたいと思っていた。
そんな野望はなかったが電力会社出身であるし、日本のエネルギー問題には長期的課題として取り組みたいと考えていた。日本だけではなく世界のエネルギー問題はこれから益々深刻になるであろうと本能的に感じていた。

その頃の自民党の権力構造をお話したい。
国会の中で野党とぶつかり合い、その中で着地点を見いだしていくのが、国対族、議運族であった。また党内の政策決定過程には『族』という極めて強い集団があって、ここの数名の意向を尊重しないと政策として党内のコンセンサスを得られない。例えば厚生省が何かの政策をやりたいと思っても、厚生族の親分衆(橋本龍太郎・小沢辰男等々)の了解を取らなければ政策としては日の目を見ないことになっていた。善し悪しの問題ではなく事実はそうであった。
また例えば大蔵省が税制改正をやろうとしても、自民党税制調査会の最高幹部4〜5名の理解を得られなければ、その物事は一切進まない仕組みが出来上がっていた。しかしこの人達を腕っぷしだけの強い政治家だと思うのは間違いで、高度の専門家集団でもあった。 例えば税調の山中貞則議員、税制の仕組みに明るいだけでなく、その税制のいわく因縁も歴史も全部知っておられ、並の役人では頭があがらない存在であった。

私は色々な族議員があるなかで、商工族を目指した。大雑把にいえば商工とは通産省のやっている仕事、産業政策、資源エネルギー対策、中小企業対策等であった。産業政策はもうご用済みと言われたけれど、将来の日本の産業競争力は日本の生存に不可欠なものであると思っていた。またエネルギー問題は、社会人のスタートとして原子力に取り組んだので元々関心のある分野であったと同時に「石油ショック」を経験した日本からしてみれば、石油にどっぷりつかってこのままやって行かれるのかという心配をしていた。
日本にとって石油問題は産油国に頭を下げて「売ってもらう」というものに変わってしまった。よくその当時演説していたのは「地球が10億年、20億年かけて貯めてきた原油を乱暴にも人類が数百年で使ってしまっていいのか」という問題。また石油依存文明を無原則に信じる訳にはいかないと世界情勢は教えていた。資源は偏在しているし、米英仏の巨大な石油資本に振り回されることも心配しなければならないことであった。日本の脱石油という政策の方向は成功したと思う。

私は商工委員会に属し、党内では商工部会で研鑽を積み、幸いにも通産政務次官、商工部会長も務め、商工族として実力者の多かった商工族の末席を汚すことができた。商工部会長を務めた時は、梶山静六、小此木彦三郎先生が私の両隣りに陣取り、うるさ方の発言に睨みをきかせていた。
人事の季節がやってきた。私は商工委員長、部会長を務めていたので、当面ポストには関心がなく、私の従姉のご主人である佐藤晃一さんと横浜にゴルフに出かけていた。佐藤さんは異色の人で、日銀出身でホテルオークラの社長まで上り務めた方である。
保土ヶ谷カントリーでハーフを終えて上がってくると、山口敏夫先生に連絡をというメッセージ。電話で連絡すると「君は商工部会長はどうかという」打診、今までもうやっているので丁重にお断りした。もうハーフやって上がってくると、今度は山崎拓先生に連絡をという伝言。電話してみるといきなり「こんな大事な日にお前は何処で何をやっているんだ」と言われる。「横浜に居ます」とお答えすると、拓先生は「女の子と遊びに行っているのか、これから派閥の中で大事なポスト配分があるんだ。すぐに帰ってこい」と言われる。私は小一時間で派閥の事務所のある砂防会館に辿り着いた。拓先生は派閥の後輩の希望を聞いて、党・国会のポストを割り当てる仕事をされておられた。非常に後輩のことを考えておられる方で私にとって尊敬する大事な先輩であった。
「それで私は何をすれば宜しいのでしょうか」、拓先生曰く「君は国対副委員長と議院運営委員会の理事を務めてほしい」。実はこれは私の政治家にとって運命の日であった。自分は今まで野党との駆け引きに手を染めたことはなく、「政策マン」を自負していた。それが180度の方向転換となった。商工族時代一番大変だったのは消費税の問題であった。
次回はこの問題を取り上げる。

経歴一覧へ