トップページ > 経歴一覧 > 私の歩んで来た道(58)

経歴

2016年10月6日

私の歩んで来た道(58)

東京に帰ったらまた難問が待ち受けていた。すなわち「政治改革」関連法案の取り扱いである。
リクルート問題は個別の事件としてではなく、その時の選挙制度のあり方に基因しているという論理である。そこで定数是正と同時に中選挙区制をやめ、小選挙区にしようという提案である。悪いのは選挙制度である。しかしそもそも大正時代の末期に小選挙区制の欠点が多く指摘され、それに代わるものとして、中選挙区制度が導入されていたのである。
私なんかにしてみれば、リクルート問題は個別の出来事であって、選挙制度の根幹にはそう関わりあいのある問題とは捉えていなかった。いわば議論のすり替えであると思った。

小選挙区制の欠点は大正時代に深く議論されていて、全ては判っているはずの問題であった。
選挙制度は民主主義の根本であるが、完璧な選挙制度というものは期待できないものと考えていた。その中で一つだけ興味のある論点をご紹介しよう。
それは小選挙区制は「大人物は生まず、小人物しか生まない」という議論である。要するに当選するためには、大衆迎合的な事しか選挙で訴えず、正論はどこかに消えてしまうという議論であり、大衆迎合的な人しか選ばれない。それは今の事として考えれば、耳障りの良い事をいう人達が、良い立場をとるという事である。良薬は口に苦しというような政策は口に出さない、ひたすら先延ばしにするという事である。正論や筋論を言う人は避けられてしまう。私は小選挙区制には反対であったし、今でも反対である。

その論点を幾つか挙げてみよう。

  1. 少数政党の立場が守られていない。
  2. 心ある新人は選挙民に訴えて無所属で当選する事は難しい。
  3. 公認権、人事権、選挙資金の配分はすべて党執行部に握られ、自由な議論は封じられてしまうこと。
  4. オベッカ政治が蔓延る。(例えば総裁任期延長論等はその典型である)
  5. 党内のチェック&バランスが機能しなくなる。

その当時の国対副委員長二階俊博・古賀誠などは皆反対であった。この法案を審議する為「特別委員会」が設置される事になった。梶山委員長は誰を委員長にするか悩んでおられたと思う。幸いなことに小此木彦三郎先生が委員長を引き受けて下さる事になった。委員会の理事は各派閥から1名ということにしたが、集った理事は全員小選挙区に反対の人ばかりであったので、審議はなかなかうまく進まない事になった。ある時間が過ぎた時、小此木委員長はこの法案の廃案を宣言、政界に激震が走り、宮沢内閣が誕生する事になった。梶山氏は金丸氏に呼びつけられ、徹底的に叱られ、金丸氏の所を辞する時は目に涙を浮かべていたと言われた程である。

私の次のポストは森新政調会長のもとで副会長を務める事であった。副会長といっても、政策に関わることではなく、派閥の希望している人事をどう取って来るかであった。色々の駆け引きの末、中曽根派の希望は十分満足できたが、翌日になって全部小沢一郎氏にひっくり返された。それぐらい金丸・小沢ラインというものは自民党の中で権力を振るっていたのである。
私の親友田原隆副委員長は法務大臣に就任することになった。(田原氏は、このポストでは十分自分の知識や経験が生かす事の出来ないと言っておられた。)そもそも民主主義がギリシャで2500年程前に生まれた時から、この制度特有の幾つかの難しさをはらんでいた。
ひとつは誰が国民の代表にするのか。選挙をやる以上ポピュリズム(大衆迎合主義)は制度がもともと持っていた難題であった。プラトンの「賢人政治」という考え方も、衆愚政治をどう乗り越えるのかという事に対する一つの答えであった。日本の議会制度はイギリスに見習って作ってあるといわれるが、1480年頃(コロンブスがアメリカを発見する20年も前)にすでにこのように腐敗した選挙はどうにかならないのかという事が英国で社会問題になっていた。しかしこれを解決できたのは19世紀末になってからであり、400年の時間を必要とした。

日本の政治改革というものは何処から出てきたのか。
ひとつは人口になるべく比例した議員の数をどう配分するかという問題、選挙にお金のかかる、そして中選挙区の同じ党の争いをどうするのか、この二つの問題であったと思う。
実は政治改革のきっかけを作ったのは、リクルート問題という個別の問題であり、中選挙区制が直接もたらしたものではない。リクルート問題を一般的な政治改革の問題にすり替えてしまおうというのは誰が考えたか知らないが、自民党に対する打撃を緩和するのに良い手法であったろうが、問題の本質を見事に逸らしてしまう事に成功した。政治改革を唱える議員、昼間はその必要性を論じ、夜は銀座で一杯というような、まるで明治維新の志し気取りであって、私は苦笑いをしながら見ていた。
国対委員長が反対、小此木委員長が反対、自民党の委員会の理事が反対、こんな法律が通るわけはないと思っていた。国会が終わって、中曽根先生にお目にかかった時、小選挙区制は潰れましたと報告したが、先生は「まだまだこれからだよ」と言っておられ、その卓見に今、感心している。
政治改革法案は潰れ、海部内閣も退陣を余儀なくされた。ある日小此木委員長は委員会終了後記者会見をされ、「政治改革関連法案」の廃案を宣言されたのである。金丸ー小沢ラインに対してこんな事が出来るのは度胸のある小此木先生のような方しかできなかったであろう。政治改革法案は廃案になったが、金丸・小沢路線の梶山イジメは相当なものがあり、旧竹下派は梶山パッシングに走った。もう一つの悲劇は、小此木委員長が議員会館の階段で転び、頭を強く打ち、脳挫傷という悲しい結果となった。数ヵ月後小此木氏はこの世を去ることになってしまった。

私もC級戦犯の一人であったに違いないが、PKO特別委員会の筆頭理事というPKO法案の行方を左右するような立場にいつの間にか置かれてしまった。
森先生は政調会長に、梶山先生は無役となった。私も肩書だけは政調副会長であったけれど、仕事は閑職であった。但しうっかりしていたのは、田原さんから後を継いだPKO委員会が想像を超えた難しさであり、戦後政治の分岐点になるほど大きな問題を含んでいたことであった。だいたい時を同じくして「佐川急便」事件が明るみに出初めた。驚いた事には、超実力者金丸信氏と佐川急便の関係も取りざたされるようになった。
国会もはじまり、PKO法案も机上にのって長い長い審議が始まった。実はPKO法案の前に「国連平和協力法」(仮称)が国会に提出されたのである。PKO特別委員会の筆頭理事を田原隆さんに言われて引き受けていた。そんなある日、石原信雄、柳井元駐米大使、西村官房総務課長が私を訪ねて来られた。用件は今なにかお蔵入りになっている「PKO法案の審議を始めて欲しい」、法案の中身は梶山委員長のもとで世界一周をして作った法律で、民社、公明がのめるようなところまで条文は整えていた。PKOで米国・カナダ・スウェーデン・欧州の主要国を訪ねて歩いて各国の取り組みを学んでいた。PKOというのは、平和維持活動で喧嘩の最中出ていくのではなく、ある程度おさまった段階で、対立する勢力が喧嘩を再び引き起こさないように見張るものであった。そんな実力部隊は日本では自衛隊しかないというのが現実の姿であった。
それでは審議の体制をみると、議運も国対も迫力に欠けていて、こんな中で審議するのは難しいな。逃げ足の早い連中ばかりいて、与謝野馨孤軍奮闘になってしまう恐れがあった。しかしPKO特別委員会は林委員長が元気一杯であるし、理事も大島理森氏中川昭一氏船田一氏をはじめ真面目で真剣な人が揃っていた。対する野党は社会党中心で野党の筆頭理事は沖縄選出の上原康介氏であった。委員会審議は始ったが、見通しは全く立っていなかった。

しかし私の思いは、海部内閣のもとで結局採決できなかった「国連への協力法」の運命は避けるべきだ。怖くて採決もしないという様なぶざまな事にはしたくなかった。来る日も来る日も審議を続けた。出口は見えない。日本も評論家ばかりやっていないで、少しは目に見える形で国連の平和維持活動に協力すべきであると思っていた。

経歴一覧へ