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経歴

2016年10月27日

私の歩んで来た道(60)

PKO法案はひとまず衆院を通った。皆が皆、この法案は参院でだめになるだろう、時間切れになると予想していた。従って社会党は安心していた。憲法、国会法では年に1回必ず国会は召集されることになっており、その会期は150日と定められている。どこかの国の様に何年かに一度全国の国民の代表が集まって、シャンシャンと大会を開くのとは訳が違う。
それまでは12月に召集される、年末だから直ちに自然休会になる。1月に入っても正月には国会は開かれない。よって実質的な会期、すなわち審議に使える時間は150日間ではなく120日前後であった。1月召集になって、年末年初の休みはなくなり、本当に150日の会期となった。そんな事は誰も気がつかないまま、参院でも審議が始まった。その当時の社会党の国対委員長は村山富市氏であった。村山氏は梶山氏に「いつまでたっても、国会は終わらないな。1月召集というものがこんなに効果があるとは気がつきませんでした。」なかば驚きの気持ちを梶山さんに伝えていた。
私は自分自身体験したわけではないが、参院の審議も大変だったようで、例えば本会議場に閉じ込められるような形になって、生理的な要求にもこたえられず、議員の人達は文字通り苦しんだ審議であった。1〜2個所修正が加えられて衆院に戻って来た。
私は議運の筆頭理事、PKO特別委員会の筆頭理事と関所2個所にいた。梶山さんは私を呼びつけてこう言われた。「与謝野、参議院から帰って来た法案、4日間であげろ。」これは無理な要求であった。というのも国務大臣の不信任案や議長等の不信任決議案が出てくれば、一本処理するのに丸1日はかかる。従って10日前後はかかる。よって我々はその対抗策を考えておかなければならなかった。
それぞまさに「サトケン」が出してくれた知恵、内閣信任案を出して、あらゆる閣僚の不信任案を全く無意味なものにしてしまうという奇策である。しかし憲法には信任案という言葉が使われているので、新憲法下では使われていないが、憲法の起草者は当然の事として考えていた訳である。「4日間であげろ。」梶山氏は要求を私にしたのである。
考えればすぐ判るように議長をはじめ院の役員、各関係閣僚等の不信任案が提出されれば1日1本しか始末が出来ない。

例えばここにある閣僚の不信任案が出されるとどういう事になるのか順を追ってみると

  1. 質問時間制限の動議     採決
  2. 質疑の打ち切りの動議    採決
  3. 討論時間に関する動議    採決
  4. 討論打ち切りの動議     採決
  5. そして最後に翻案の採決となる

昔の話なので少し正確性に欠けるかもしれないが、上に述べたものを一つ一つやっていくと、1日1本がせいぜいである。余談になるが韓国、台湾の国会をみていると日本とそっくりという気がしてくる。アジア文化の一つかなんて思ってしまう。
まず国会の役員、具体的には議運の委員長、続いて議長の不信任案。手順通りやっていたら丸1日かかる。2日目が終わった時、社会党の席へご機嫌伺いに上がったところ、山花書記長から声をかけられた。「与謝野さん、副議長の不信任案を出そうと思うがどうだろう。」私の答えは「副議長は社会党出身の方です、それはやめられた方がいいと思います。」そして寝る間もないので国対のソファーで仮眠をしておりましたら、3階に来いと言われる。行ってみると各党の書記長・幹事長等が集っている。恐ろしい所に来たなと思っていたら、「与謝野君どうしたら良いかね」というご質問。私は率直に答えて「今やっている採決、幾つか無駄があるように思います。これは省くことのできるものです。」と申し上げた。とたんに公明党の市川書記長から怒鳴られた。「無駄な採決とはなんという事を言うのか。」私は会議を退席した。終わってみたら私の言う通り幾つかの採決を省略する事で合意していた。皆、体力的に参っていたのである。
3日目は比較的スムーズに事は進んだ。この日に内閣信任案を出して、全ての閣僚の不信任案を絡め取ってしまった。後、野党は引き延ばそうとしてももう手段はなくなっていた。この間私は3回強行採決を行った。しかし野党の抵抗は前とは全然違いプラカードを掲げる位であった。
そして4日目がやって来た。本会議で採決の日であり、どんな事が起きるか判らない状況。しかし本会議場で乱暴な事を行って、国民の批判を浴びる事も野党にとって危険なことであった。午後一番で本会議場に入った。日本社会党及びこれに同調する勢力の姿は見えないではないか。静かな採決が期待出来るのではないか、いやそんな筈はない、あれだけ抵抗の限りを尽くして来たのだから。やがて現れて騒ぐのではないか、不安は鎮まらなかった。しかし現れない。討論は自民党の大島理森氏が賛成の立場から堂々とした賛成討論を行い、余り長いので議場から私が野次ったら、あとでお叱りを受けた。場内では各党間で色々話し合いが行われ、まず公明党の神崎氏から「与謝野さん、大事な法案ですから記名投票にしませんか。」という提案があり、直ちに同意した。そこへ共産党の東中氏が来られ、「うちの党は牛歩をやります。但し1人5分位という事にしてありますから、そんなに長時間はかかりません。」おとなしく採決に応じて下さるなら牛歩が何分かかってもかまやしないと思っていたところなので、「東中先生、どうぞ」と挨拶した。
かくしてPKO法案は、結局は日本社会党を壊してしまうという皮肉な結果になったが、無事衆議院で再議決され法律となった。国連では明石氏がカンボジアの事を心配しながら事務次長として地道な活動をやって来られた。
本会議場から国対委員長室に戻ると、梶山氏が凄くご機嫌で皆を慰労されていた。4〜5分そこに居たが、私の仕事は終わったんだと思い、早々国会を後にした。

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